エッセイ

日本ホスピス在宅ケア研究会・飛騨高山全国大会抄録


いのちの誕生も、死にゆく過程も、暮らしの中で身近に体験しなくなって久しい日本人の生き様と死に様は、その輪郭を失っている。
死について学ぶ機会は、子供だけでなく大人も少ない。本人へのがん告知や病状説明が主流になって、病院で担当医から「がんです。」と告げられて、初めてそこで限られたいのちと「死」を想う現代人がほとんどではないだろうか。
治るステージなら幸運だが、そうではない場合、限られた時間の流れの中で、どうショックを乗り越え、生きる意欲を取り戻し、人生に折り合いをつけて寿命を全うしていくのか。そして、全国に増えている緩和ケア病棟では、絶望の淵に佇むそうした患者さんに、手を差し伸べることができるのだろうか。
「ここには臨床心理士などの専任スタッフがいないので、あなたのような難しい魂の痛みには関われません。」
と言われた患者さんにも出会った。スピリチュアルケアは専任スタッフがいないとできないケアなのだろうか?
子育ても、教育も同じだと思う。スローに、深く、じっくりと、耳を傾けない限り、いのちの声は聞こえてこない。私も少し年を取って(熟年になって?)忍耐力がついたようで、相手の声を以前より、ゆっくりと待てるようになった。
スピリチュアルペインはある。確かにある。そして、それに向かい合ってくれる人たちがいて、初めて絶望の底から患者さん本人の力で這い上がってこれる。そのお顔はくっきりとした輪郭の、凛々しい美しさだ。
私が出会った患者さんたちが、寿命を全うして生きる姿を教えて下さった。