偉大なるペンパル、そして時々再会
「新薬と臨床」に掲載された記事です。
「土曜日の午後よろしくお願いします。甲府駅のお迎えは私。お昼ごはんは例の場所」
「万事おまかせ。永六輔」
そんなハガキのやり取りが講演の確認だった。永さんも私も電脳の世界には距離を置いていた。永さんは携帯電話をほとんど使わず、私はパソコンに近づかなかった。
永さんは自分ひとりで地方に仕事に出掛け、そこの空気を嗅ぎ、方言を聞き、地元の人々と交流しながら地元のものを食した。
そのフィールドワークとも言える始まりは早稲田大学の時代、岡山県福山市草戸千軒。600年前に栄えた中世の市場跡の川底の遺跡の発掘だったと教えて下さった。そこにみる職人の誕生、商いの拡大、人々の暮らし。民族学者の宮本常一を尊敬していた、永さんはどんなにワクワクしたことだろう。永さんは人の手がつくる職人技の伝統を心から応援していた。ラジオ番組を週末もっていたから、ラジオでの話題は地方で見てきたユニークな取り組みや庶民のつぶやきだった。そのいくつかは『大往生』(岩波書店)という本に収録され、大ベストセラーになった。短い一言の数々がグッと胸に届く。「そうなんだよ」と共感、時には喝采を呼んだ。
永さんは最愛の奥さんを東京に置き、週のほとんどと言っていいほど、地方に出掛けて行った。しかし、どこに行ってもハガキの最初の一枚は奥さんへ送る。その習慣は奥さんが亡くなってからも続いたと教えてくれた。
私が出会った頃の永さんは60代。マルチタレント、放送作家、元作詞家、どう呼んでいいかわからない多分野の才能が輝いていて、日本の津々浦々、どんな人も永さんのことを知っていた。永さんをみんなは自分たちの味方だと感じていた。どの人も永さんの話を生で聞きたがった。お話はいつも笑いの渦だった。世相の批評も鋭かったけれど、筋が通っていて、聞いていて気持ちがよかった。
井上ひさしさんの言葉を借りると「難しいことを優しく、優しいことを深く、深いことを面白く、面白いことをまじめに、まじめなことを愉快に」そんな話だった。だから、医者の学会はその対極にあり大嫌い。医学学会からの記念講演のどんな依頼も断っていたようだ。
私がなぜ永六輔さんに出会ったのか?
恥ずかし気もなく正直に申し上げると、永さんが私を見つけて下さったんだと思う。永さんは、全国各地で孤軍奮闘な取り組みをする人たちを応援して下さることが多かった。まだ90年代には珍しかったホスピスケア、地域医療にも興味をお持ちで、実践者たちにも会いに行った。だから、奥さんを家で看取ることに繋がった。私のことは松本市でユニークなお坊さん活動をしていた高橋卓志さんから聞いたらしい。
「封建的な田舎で、それまで誰も実践していなかった、在宅ホスピスケアをしているイギリス帰りの面白い女医がいる。しかも、地元の権威からはあまりよく思われず、孤軍奮闘?らしい」そう永さんに伝わった。
私は勇気を持ってお便りを出し始めた。お忙しい人であるから、なるべく短く簡潔に書いた。私がどうやってがんの末期でも痛みを緩和して家での看取りをしているのか、など。永さんからは、俳句のような言葉の3行詩でお返事が必ずきた。後で話して下さった。
「内藤さんからのお便りは嬉しかったよ。僕はラジオのファンにも返事がかける。何千通になるけど。テレビになったら何百万人だから返事は無理。ネットの世界では更に無理だ」
晩年、ついに腱鞘炎になって書けなくなるほど、ご縁のある人、お世話になった人にはハガキを出して下さった。
私は小さい頃から筆まめ症と言われるほど便りを出すのが好きだった。実は夫も軽い?筆まめ症なので、遠く離れた恋愛が成就して結婚できたのもこの病気のお陰だと思っている。〈閑話休題〉
永さんとは時によると週一回は文(ふみ)を交わした。私も講演で全国に出掛けることが多いので、現地報告も兼ねて書いた。ポストの前で書く、車内で書く。次第に互いの住所は暗記するようになった。冗談だと思って聞いていた北海道の共通の友人が「本当でした。永さんが私の前でサラサラとあなたの住所を書くのを見ました」と報告してくれた。私たちはペンパルなのだ。
さて、ある日、永さんが甲府に用事にいらしたついでに、初めてお会いすることになった。2000年10月。
このおしゃべりをできたら本にまとめてよいですか?と問うと快諾を頂いた。友人の編集者の力で『あなたと話がしたくって』(オフィスエム刊)という本になった。恰幅のよい大きな声で笑う、向うところ敵なし!怖いものなし!というエネルギー溢れた永さん。私だって若さという向うところ敵なし!で対抗したわけだが・・・。
約20年前のその内容は全く今日的だ。永さんの歌がいつも、どの時代にも、ぴったりと寄り添うのと同じように。その時既に大人の最後の仕事は若い身内に「死に方を見せること」と語っている。そして、永さんはその通りの締めくくり方をした。
あの頃の永さんも素敵だった。でも、母を送り、奥さんを家で看取り、自分もいくつも病を得、苦手なお医者さんとも付き合えるようになり、家族のケアで、家でいのちを終えることになる永さんの道のりを思い出すと、たくさんの別れの悲しみや嘆きや苦しみや、そして、出会いや喜びを味わった晩年の永さんは痩せて車椅子になったけれど、何と深く潔く素敵だったことかと弟子としては生意気に思ったりする。
永さんは甲府にも何度も来て下さり、地方で講演もご一緒するようになった。一緒に旅をするようにもなったのだ。私の都合や立場をいつも心配して下さった。
「僕はお医者さんの話はあまり好きじゃない。面白くないんだ。心が伝わらない。特に学会はスライドとか、文字とデータばかり。でも、あなたのスライドはいいねぇ。出会った患者さんの笑顔。暮らしの様子。それを映すことを許して下さる皆さんも偉いねぇ」といつもニコニコして聞いて下さった。
永さんとの講演は打ち合わせはシンプル。持ち時間の確認のみ。持ち時間を1分の単位で守る私を気に入って下さった。
「偉いお医者さんが言ってたように、いのちは時間だから」
大好きなラジオを亡くなるギリギリまでしていた永さん。滑舌が悪くても長年のファンたちは声援を送って下さった。ラジオ構成は秒単位で進む。それが身に付いた永さんの舞台上の時間は厳守だったのだ。私と文(ふみ)の交換は続いた。
ある時、返事が来なくなった。しばらくぶりで会うとげっそり痩せていた。永さんが病気になったのだと心配した。実は奥さんが末期がんだったと後でわかる。介護に集中なさっていたのだ。ハガキがきた。「在宅ケアを頑張っています。いよいよ家にもモルヒネが常備されました」
よい訪問看護と往診医のチームで奥さんは本人の望む通り家で最期まで過ごすことができた。
「あなたに一度会ってもらいたかった。本人も会いたがっていた。残念です」
私に一言でも相談すれば、私が在宅ホスピス医だけに、余計な心配をかけると思ったのではないか?ギリギリまで黙っていて下さったと思う。奥様がお亡くなりになって落ち着いた頃、甲府でお会いした。お気に入りの静かな食堂にお連れした。永さんはお酒をたしなまない。
私は静かにいつも通り永さんの話を聞いていた。辛いのは当たり前なのだ。もう思い切り泣いた後なのだ。
「お寺の子だけれど、お骨をお墓のあの暗い寒いところに入れるのは嫌だな、と思った。僕がお骨になるまで待ってほしいと思い、今も家にある。僕の本棚。ひとつだけのブックエンド」
不謹慎だけれど、クスッと笑った。永さんも「おかしいよね」とクスッと笑った。その後も永さんの旅もラジオ放送も続いた。段々と不調になった。
「医者は偉そうな人が多いから嫌だ」ととにかく威張る人が大嫌いな江戸っ子。ごねる永さんをご家族が専門医にやっと連れて行った。パーキンソン病と診断され、薬剤投与で症状も緩和した。「僕はパーキンソン病のキーパーソン」そんな冗談も飛び出した。みんなでホッとした。その後は骨折、がんの発見など不調も続いたが、タイミングを選んで車椅子を押して、私との講演旅行にお連れしたこともあった。私の話す持ち時間の方が段々と長くなった。ある時、旭川市の講演で話す私を車椅子の永さんは横でじっと見て
「うん、内藤さん、上手くなったね」と1000人の聴衆の前でおっしゃって下さった。私は内心、弟子として永六輔流の真打にその時になれたと思った。出会って20年近く。
私の出す文(ふみ)は便箋からハガキに変えた。封筒を開けるのが少し震える指では負担かなと思ったからだ。文字も少し大きめにした。私には時々おハガキを下さった。永さんの書く文字で体調が何となくわかった。返事はなくても送り続けた、そんなある日、かなり調子が悪そうだと医者の直感が告げていた。
永遠の別れを実際に会って直近で確かめることがどんなに大切か、私には十分わかっている。どうしてもお会いしたかった。無理は聞き入れられた。私と同じ弟子のフォーク歌手小林啓子さんと療養するご自宅に伺うことができた。
初めて伺うご自宅は、まるで図書館のような永さんの小宇宙。永さんは深く眠っていた。声をかけても目は開かなかった。私は耳元であいさつした。
「本当にありがとうございました」
目を瞑ったまま、永さんの口が大きく笑みを浮かべた。
「大丈夫。僕はもう安らかなところに居る。そして、ずっと言ってきた、思い出してくれる人がいる限り、僕は生きている」そう伝わってきた。10日後に永さんは天の星になった。
私は今も永さんのことを思い出す。コロナ禍の今、世界中の人も「上を向いて歩こう」を歌っている。こうして永さんのいのちは永遠なのだ。
永さんの大好きな旅はしばらく自由にできない。内藤いづみもじっと地元にとどまっている。嫌々ながら電脳世界にも少し近づいた。そうしていのちの前で、威張らず、偉ぶらず、優しく、深く、面白く、まじめな言葉と共にいのちのケアを続けていく。永さんに私はそう約束する。