ストレスを抱えたら
学校や職場でストレスが高まっている。生徒も先生も働く人たちも様々な環境の中で、人生に、人間関係に悩み、心身共に苦しみを抱えて募らしている。
私の外来でも身体症状や心理的症状を様々に訴える患者さんが増えている。そんな中で、リラックス法として心理学の「動作法」に出会い、仲間たちと学びを続けている。
良き指導者を得られれば、ヨガの呼吸法、太極拳などもよいと思う。
リラックスし、平和な自他を目指す方法は他にもたくさんあると思う。
ある時、こんな相談を受けた。
ストレスのために体調を崩した部下がいた。
心配し、できる限りサポートしてきたつもりだったが、
「あなたのためにこんなになった。あなたのせいだ」
といささか恨み調の言葉を残し、職場を去ってしまったという。
その上司にこの言葉は重く残された。納得できなかった。
「私のせい?なぜ?」と。
少し似た状況を私も体験したことがある。
末期がん患者さんとの出会いはいつも十分な時間がない。相手は心身共に辛くて、かなり困っている。家族もパニックである。
「家に居たい」
と希望があってもそれが絶対に揺るぎなく強いわけではない。
私たちへの信頼関係も始めからしっかり存在していない。
信頼は育てていくわけだから、相手の残された時間が足りないと、こちらものんびり構えているわけにはいかない。
随分前のことだが、ある60代の末期がん患者の奥さんから相談を受けた。
「家で看取りたい」という。落ち着いたしっかりとした感じの女性だった。娘ふたりも協力するという。往診してみると、がんの痛みも強く、ほぼ寝たきりになっており、余命は1ヶ月未満位と判断できた。
行動力と実践力と温かなハートの訪問ナースを配置した。すぐに本人は私たちに信頼感を持って下さった。ナースは努力した。痛みは取れた。
外に行けないその人のために、デジカメで庭の花々を映し見せてあげた。
「ほら、お庭はこんな感じになっていますよ」と。とても喜んで下さった。しかし、段々私たちは辛くなってきた。
娘ふたりと、特に奥さんがことごとく私たちに対して厳しい注文と批判を投げかけてくるのだ。
がんの痛みにモルヒネなどの鎮痛薬を投与することは必要だ。
それによって楽になり、自分のいのちに向かい合うことができるから―。
「痛み止めを使うからいのちが縮む」と私たちを責めた。
痛みを止めることが大切だとどんなに説明しても納得してくれなかった。
「食べれないのに、この程度の点滴でよいのか?」
たくさん点滴を入れると痰も増え、本人が苦しくなると説明しても、これもだめだった。
やがて、本人はウトウトすることが多くなった。
娘はインターネットで色々な情報を集めてきて、「これはどうだ。あなたのやっている治療はおかしい」などと私に詰め寄った。
「もし、私たちのケアに疑問があるのなら、元の病院に御戻り下さい」そう言うと、「いや、お父さんは家に居たいはずだ。診て下さい」と答えるのだった。
娘は孫も連れて来ていたが、仲良くおじいちゃんを囲むことが少なかった。
娘ふたりの間もなんとなく険悪だったが、それも含めて和解への道のりが在宅ホスピスの働きのひとつと信じて私たちは関わった。
ナースも頑張った。
しかし、こちらが心を込め、親切にすればするほど「役立たず!」というような、こちらへの冷たい視線と批判が突き刺さった。
もちろん感謝の言葉などない。
珍しく私も往診が苦痛だった。
「どうして?なぜ?私たちのどこがいけないの?」
と私たちは毎日反省しながら、在宅ホスピスケアの温かな力が創り上げられないことに悩んだ。
やがて、患者さんは亡くなった。安らかな最期ではあったが、家族の視線は冷たかった。
私たちの気持ちは割りきれなくて、重く、充実感もなく、疲れだけが残った。これでは次の患者さんのいのちに明るく元気に向かい合えない。
久しぶりに「デスカンファ」看取りの反省会をすることにした。
外部の視点とアドバイスを頂こうと、高野山大学でスピリチュアルケアを教えている、井上ウィマラさんにコーディネートをお願いした。
振り返ってみても、このデスカンファは本当に有難かった。
患者さんと妻と娘ふたりの関係がよく見えてきた。
娘たちが父に持つ深い愛情。本音で付き合えない状況。
反していつも威張っているように見えた母に持つ拒絶感。
婿の立場の父の苦しみ。
いつも遠慮している大好きな父。そんなことが見えてきた。
私たちのケアが問題だったわけではなく、その人たちが向かい合い、解決しなければいけないライフレッスンが解かれないまま宙に浮き、そのやるせなさと悔しさと苦しみが、ひたすら親切に関わる私たちにターゲットとなって向けられてきたのでは・・・と思えた。
実は私たちが問題ではなく、彼らの問題が私たちに対して投影されたのだと。そう思えた時、私たちはストンと何もかも腑に落ち、スッキリした。このデスカンファには今も感謝している。
「看護と生病老死」(三輪書店刊)の著作もある井上氏は、こう述べている。
湧き上がってくる感情のエネルギーを共感的に受容して見守り、それが何であったのかを言葉で確認できるように「?だったんだね」などと映し返しをすることで、過去の物語として人生に再総合するお手伝いをすることが必要となります。
在宅ホスピスなどの終末期に過去のトラウマが出てくる場合には、医療や介護のスタッフとのトラブル、あるいは家族とのトラブルが生じた時にその可能性を考えてみる必要があるでしょう。そのトラブルの中で患者さんは何を思い出しているのか、スタッフや家族という役者を相手に過去の何を満たそうとしているのか、何をやり直そうとしているのか、そういった視点を持つとよいと思います。
人は言葉によって思い出すことのできないことを、繰り返し何かの行動によって表現してくるものです。患者さんがトラブルを起こしてくるのは、口では言えない何か、本人にもよくわからない何かを表現したいがためにやむを得ずに行動化しているのです。そんな時、私たちは自分が責められているという思いを手放さなければなりません。そうすると、なんとなくその人の魂が表現したがっているテーマが感じ取れるものです。
子供や若い人のトラウマを癒す場合には、トラウマを体験した時に本当はその時に欲しかった愛情や思いやりは何であったのかを想像し、それを私たちの中に豊かに持ちながら、今ここでその本人に接してゆくことが大切です。
トラウマを癒すためには必ずしも過去を思い出す必要はありません。今ここで行動として表現されていることを読み取って、必要としている魂の滋養分を提供し続けてゆけば自然に癒されてゆくところが少なくありません。
子供から若者、認知症の老人に至るまで、あらゆるトラウマケアの基本を身に付けようと思う人にお勧めの私のトレーニング法があります。癇癪を起した2歳から5歳位までの子供のご機嫌が治るまで徹底的に寄り添ってみることです。あんなに怒っていたのに、突然遊び出したり、笑顔になったり、「えっ」と思うような瞬間があります。
そうした瞬間を数多く体験するうちに自然にトラウマケアの基本が身に付きます。
あの患者さんのケースを振り返った時、残されているご家族は今どうお暮らしなのか・・・とふと思った。いつかきちんとライフレッスンに向かい合うことを祈っている。
どうしても状況がわからない時、違う視点を持つ専門家にアドバイスを求めることもひとつの方法である。