エッセイ

祝島に出会えた幸せ

旅の帰路、羽田からモノレールに乗るとちょうど日没の時を迎えて、都会の街の美しい夕焼けが車窓の外に広がった。
同じ日の朝、私は山口県祝島(いわいしま)のはまや旅館の、海に向って開かれた窓から大きな日の出を眺めていた。


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ほんの12時間前のことなのに、祝島に居たことが遥か昔のようにも思われた。
滞在の2日間はハードなスケジュールで、棚田を目指す山歩きや、海の移動ではスナメリ(最小のくじら)の群れに会えたり、私のような山の民には新鮮な体験ばかりだった。もちろん獲れたての海の幸(鯛、はも、アワビ、さざえ)もたくさん頂いた。
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祝島の住民の暮らしぶりに少し触れただけなのに、足元を見つめて肝を据えて生きる勇気を与えられた気持ちに満たされて、とても幸せだった。
そして、なるほど、これか!と気付いた。30代の女性監督 はなぶささんが祝島に出会い、魅せられ、東京からせっせと通い、記録映画を撮り続けている理由が。
今回の旅のご縁は、本橋成一監督の呼びかけに始まった。
「山口県瀬戸内海の島で、弟子が記録映画を撮っている。できれば一度、現地を覗いて下さい」
土地勘のない、ということは恐ろしい。
「四国高知でのホスピス学会の後、そちらに回ります」
簡単に行きつけると思っていたのだ。それをもれ聞いた広島の数野医師が、大慌てで私たちのためにツアー計画を練って下さった。祝島までお忙しい中、同行して下さった。
高知からJRで四国を北上、山を抜け、瀬戸大橋で海を渡る(何という絶景!)新幹線や山陽線に乗り換え、柳井へ。
そこから車で長島へ。
そこから海路で祝島へ。
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こうして能天気の私が多くの救いの手によって祝島へ到着できた。
本橋成一さんは、チェルノブイル原発事故の後、放射能汚染の危険地区に住み続ける少数の人々の暮らしを伝える記録映画「ナージャの村」と「アレクセイと泉」で世界的に高い評価を受けている。
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自然に向き合う素朴な暮らしぶりを淡々と映しているのに、その背後にある人類の作り出した業火と傲慢さの影が迫ってきて、観る者の心を激しく揺さぶる映画だ。人類はこの100年何を残してきたのか、と。放射能汚染、それは遠くに離れた者たちは、見なければ知らず、感じることもなく無視できる静かなる深い恐怖。
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さて、祝島はその昔は海路の要所として営えた島だったらしいが、今は農業と漁業で生きている。過疎の進む島だ。年寄りが多い。動ける者は誰もが山に、海に出て、必死に働く暮らし。
毎朝島民は、登る朝日に手を合わせてその日の安全を祈るという。その朝日の登る方向、田ノ浦に原子力発電所建設の計画が持ち上がり、以後、島民は結束して27年間計画反対で戦ってきた。
他の島では賛成派も多く、既に祝島以外では多額の補償金を受け取っている方々もいると聞いた。
田ノ浦は、希少価値の生物が生息するホットスポットであることが証明されている。
「生きる糧、恵みを与えてくれた海を金で売ることは許されないのです。豊な自然を子孫に残したい」
そう島の年寄りたちは言う。
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「いのち」には、直接触れないとわからないメッセージがある、と私はずっと唱えてきた。20年以上、在宅ホスピスケアでいのちの看取りを応援してきたのは、ひとりでも多くの人にいのちに向かい合ってほしかったからだ。
こうして祝島を訪れることができて、島の様子を直接知ることができてよかった。見なければわからない。
多くの人の便利な暮らしのために、知らないどこかで大きな犠牲が強いられていること、またそれだけではなく、多くの人々の未来の環境に大きな影響を与えうる原子力発電開発の進展に、ひとりでも多くの人が気付いてほしいと心より思った。
はなぶささんはこれからもきっと島の暮らしをたくさん記録に撮ってくれるだろう。原発反対の激しい戦いの様子も含まれるのだろうが、島民が無農薬のびわを育て、棚田を守り、ひじきを採り、漁に出て、海と山の恵みに感謝して暮らす様子は圧巻だろう。
「できるのならこの島で死にたい」と支え合って祈る様子は、私たちの魂に訴えてくれる大切な記録になると思う。
祝島市場ホームページ
後日はなぶささんから届いたお手紙