未来へいのちの切符を手渡す
昭和27年創刊、日本初の薬物療法の専門誌である「新薬と臨床」2015年11月号に連載記事「未来へいのちの切符を手渡す」が掲載されました。ぜひお読みください。
―はじめに―
今回、死生観のテーマを頂いたのは本当に有難いことでした。
東日本大震災や多くの災害を体験している今だからこそ、医療者だけではなく、日本人が改めて各々の「いのちと死生観」に向かい合うことがとても大切だと思うからです。
人間を細分化していくと、核を中心にした原子になる。その形は宇宙にも似ている。「マクロコスモス」と「ミクロコスモス」私たちは小さくて大きい、何かの中に居る。そんな自分なりの発見を12歳の頃にしました。私の死生観の底辺にあります。
私は田舎町に住む臨床医です。医学の世界を志したのは12歳の時でした。“いのち”とは何かを学びたいと12歳の私は決心したのです。
しかし、医学部に入って学ぶことは〝いのち″の不思議には遠いことばかりに思えました。特に、手遅れのがん患者さんたちの身体と心のケアは十分ではありませんでした。
研修医として勤務していた病院では、豪華な個室が用意されていましたが、個室の空気は重く、孤独に満ちていました。がん告知のない時代でしたから、患者さんに近寄って「今、何が辛いですか?痛みが取れたら一番したいことは何ですか?」と尋ねることも許されませんでした。「死ぬのが怖い」と本音を訴えることもできないまま、患者さんたちは衰弱していき、家族は十分な会話もできず、やり切れない深い悲しみと後悔を残したまま、永遠の別れになるのが常でした。
当時のがん医学の主流のやり方に私は納得できませんでした。そして、医者になって3年目の年、大学病院に入院していた23歳の末期がんの女性との出会いが、ひとつの転機となりました。
“病院に居続けても治る見込みは小さい。でも、家に帰れば今を生きていく希望がある”―そんな本人と家族の希望通りに私は彼女を退院させ、彼女の家で家族と共に寄り添って看取ることができたのです。
彼女は毎日笑顔で「病院には底なしの怖さがあった。でも、今は何も怖くない。父と母と妹に囲まれて幸せ」と言ってくれました。私もニコニコと笑いながら穏やかにそばに居ることができました。彼女の笑顔は、今も思い出す度に私を支えてくれます。
国の在宅ケアシステムも、ホスピスも、見本もない30年以上前のことです。そして、目の前のいのちに、どう寄り添うか?苦しみに悩む人のために何ができるのか、という実践が私の死生観も鍛えてくれたのです。
その後、私はイギリス スコットランドに移り住み、文化を(死生観も含めて)学びながら子育てもして、幸いにホスピスケアの道に辿り着くことができました。がん患者の痛みはトータルペインである、まず患者の体の痛みを緩和しなさい、と説く、シシリーソンダース女医からセントクリストファーホスピスで教えを頂くこともできました。もちろんその道のりは山登りにも似て、険しい難所もあり、笑いも涙もありました。子ども三人を夫とふたりでおぶったり手を引いたりして山道を登り続け、子どもの手はやがてひとり、ふたり、三人と離れていき、今は夫とふたりの旅です。
患者さん、その家族、私を導いて下さる師匠や仲間たちとの出会いを振り返りながら「いのちの不思議な物語」が交差し、死生観が浮かび上がる世界をお伝えできたら幸せです。
1.いのちとは何か?
皆さんも幼い時に“いのち”とは何か、“死”とは何か、と思った時がありませんでしたか?。私は5歳の時に老衰で自宅で亡くなった祖母の死に顔に触れた時、死とは何と冷たく固いものなのか、とびっくりました。初めての死との出会いでした。生と死を隔てているものに気付かされました。
“生”とは常に流動して変化していく暖かいエネルギー。“死”はもう何も動かない、固定したもの、と。
アメリカ映画で『21 Grams』という興味深い作品がありました。主演はショーンペン。死んだ直後、正確に計ると体重が21g減っている。これが魂(肉体を動かすエネルギー)の重さではないか?と。
在宅で死にゆくプロセスに付き添う時も思います。さっきまで生きていた人が最期の息を引き取り生体の代謝が徐々にゼロに収束していく。心停止、呼吸停止し、私が臨終であることを告げる。確かにさっきまで存在していたいのちを動かしていたエネルギーが消えて、肉体は亡骸(なきがら)になる。そのエネルギーは消えたのか?私自身は消えたとは思っていません。エネルギー不滅の法則を信じているのです。どこかに移動したのだろうと思えるのです。いのちの源というようなところに。
私が尊敬する人物のひとり、精神科医のエリザベス・キュブラ―・ロス。1970年代から死にゆく患者さんたちと対話し、世界で初めてその過程について記した著書『死ぬ瞬間』で知られる彼女は、〝死の専門家″であると同時に〝生の専門家″でもありました。
そのロスに9歳のアメリカ人の男の子ダギーから手紙がきました。脳腫瘍で余命厳しい彼からの「いのちって何ですか?死ぬってどういうこと?どうして若い僕が死ぬの?何かの罰なの?」という問いです。
自分の病気を知った時の、悲しみ、怒り、恐怖、混乱、いろんな感情がその手紙の中に含まれていました。大人たちは誰も答えてくれなかったのです。
ロスはダギーに丁寧にイラストを付けて返事を書きました。ダギーは、この手紙を受け取って大変誇りに思い、4年後の13歳まで立派に生き抜いたのだそうです。その返事の内容が一冊の絵本『ダギーへの手紙』(佼成出版社)になっています。
一部をご紹介しましょう。
人はまるで種のように生まれてくる。
でもわすれてはいけないよ。神さまは、たんぽぽがどこにとばされるかをきめる風をおこしていること。神さまは、たんぽぽの種をたいせつにおもっているのとおなじように、すべてのいきもの とくに、子どもたちをたいせつにおもっているのです。だから、人生にはぐうぜんというものはないのです。
この世でやらなければいけないことをぜんぶできたら 私たちはからだをぬぎすてることがゆるされるのです。そのからだはまるでさなぎがちょうちょをとじこめているように 私たちのたましいをとじこめているの。そして、ちょうどいい時期がくると私たちはからだからでて自由になれるのです。
それが私たちの死ぬときです。
さらにロスは、“君はおとうさん、おかあさんの先生なんだよ。いのちって何か教えてあげているのよ”というようなメッセージをダギーに語りかけます。
ダギーはきっと、自分の役割を理解し、ちょうちょのイメージに明るい希望をもって最期の時を生き抜いたはずです。
2.ライフレッスンに気付き、向かい合い、チャレンジすること
人生には偶然はない。自分が生まれ、今ここにいることは必然であり、今自分が置かれている状況も必然だとロスは言います。つまり、すべてのことに意味がある。お金持ちの人も、貧しい人も、健康で元気いっぱいの人も、身寄りのない人も、病と闘う人も、みんな今置かれている状況でどう生きているのか。そして、「正直である」とか「やさしさをもって人と接する」とか、一人ひとりに与えられた人生の課題(ライフレッスン)を全部クリアできたら、この世を〝卒業″できて、次のステップに進めるのだと言っています。ライフレッスンとは、この世に生まれてきた意味、使命に気付き、細々した暮らしの中で、縁ある人と関わりながらそれを果たしていくこと。老いも若きも関係ない。今世で今という深い時をどう過ごすのか、とロスは問いかけているのです。
9歳のダギー君はその意味をしっかり受け止めたのでした。私もストレートではなくても、こんなことを少しずつ伝える機会が多くなっています。
「あなたはもう治らないがんです。でも絶望することはない。今を生きているんですから。今を生きている、というのは私たちと平等なんです。希望を捨てないでほしい。そして、あなたの人生は最期まであなたが歩んでいくことに気付いて下さい。私たちはそのお手伝いをします。あなたがライフレッスンに向かい合うために、身体の苦痛は私たち専門家が取りましょう。最善を尽くします。その後は自分で考えてみて下さい。何をしたいのか?何にチャレンジしたいのか?何のために生まれてきたのか?」
そういうことを尋ねることができるくらいに信頼されるケアを目指して働いています。
3.死生観とは、今をどう生きるのか、という決心の積み重ね
死生観というと、すぐ宗教的な悟りのイメージなどの難しいことを思い浮かべがちです。でも、そんな大それたことではないのです。私が出会った患者さんたちは、がんの痛みや不安から解放されると、素朴に自分の暮らしを見つめ直し、今まで身近にあった幸せを再発見して噛みしめます。まるでオセロゲームのように黒ばかりの面が一気に白に変わるような瞬間に立ち会ったことがあります。その時、共通に皆さん心から「ほっとした」とおっしゃいます。
地位、名誉、お金をたくさん持って歩んできた人より、庶民の方が、幸せの再発見に近いように感じたりします。死ぬ時には何も持っていけないから、たくさんのものを抱えた人ほど、それらをおろすのに手間取るのかもしれません。
私たちが向かい合う死にゆく人とは、それまで身に付けたものを取りはずした、ピカピカのその人自身なのです。
59歳の肝臓がんの患者さんがいました。(Fさんと呼びましょう)
がん治療は大病院で受けましたが、結果ははかばかしくなく転移も進みました。ご本人は思い切りのよい性格らしく、奥さんに「内藤先生のところに相談に行く」と宣言しました。奥さんは一瞬焦ったそうです。「内藤先生は在宅ホスピスケアのお医者さんだと地元では知られていましたから。つまり、先が長くない、ということを本人は覚悟したのだと思い、ドキリとしました」
ご本人は淡々漂々とした様子でした。初めての面談はとても大切です。信頼を得る真剣勝負でもあります。
Fさんは、まずこう言いました。
「病院にはもう行きたくない。治す治療がないのなら行く必要はない。最期まで家に居たい。家でないとできないことが4つあるんです」
そして、照れた笑顔を見せました。
「まず、友人との麻雀。家に麻雀卓がある。ふたつ目は在宅競馬。3つ目、一日中ジャズを聴くこと。4つ目。いや、これが本当は一番大切なんだけど・・・家族と居ること。先生はがんの痛みを取ってくれる名医だって?ぜひ頼みます。この4つがすべて叶うなら、もうそこが極楽だよ」
奥さんは「勝手なことばかり言って困った人です」と言いながら涙目になりました。
「Fさん、お引き受けします。ただひとつ問題があります」
「え?重要なこと?」
「ええ、私は痛みを取るのは得意なんですが、運転が好きじゃなくてね。運転してくれる看護師がいないとひとりでドキドキしながら運転して来るんです。Fさんの家に入る、あの路地と駐車場、狭いでしょ。難所です」
「わかった。俺を呼んでくれ。運転するから」
末期がん患者さんが運転代行?何だかおかしくてみんなで大笑いしました。
Fさんの奥さんは老親をふたり看取ったしっかり者です。奥さんはこっそり私に言いました。
「自分の4つの望みを聞いて頂いて夫はホッとしています。先生、私ね、夫が旅立つ日の予感があるんです」
「えぇ?!本当ですか?」
「はい、競馬好きの夫は、きっと菊花賞の日に旅立って魂は馬場に飛んで行くような気がします」
なるほど、と私はその会話を大切に胸の奥にしまいました。
Fさんは大好きなジャズを聴きながら、隣人や旧友たちと麻雀卓を囲んだり、テレビで競馬をしたり、家族との食事を楽しんだりして過ごしました。病気はじりじりと進みました。最期の日が近づいてきました。
「Fさん、心配なことはありませんか?」
「4つの願いを叶えてくれたんだから、俺は本当に幸せ者だよ。ありがとう。ただ、俺は少々気が短い。痛みがないけれど、だるいのが辛くなってきた。底なし沼に両足を引っ張られるような辛さなんです。痛みと同じくらい辛いかもしれない。これはどうにかなりませんか?」
この症状はがん患者の末期にみられる、言いようのないだるさ、全身の倦怠感です。いくつかの方法を試した後、ご本人から軽く眠らせてくれと頼んできました。医療的には鎮静(セデーション)といいます。私は患者さんに鎮静をすることはほとんどないのですが、Fさんの希望を受け入れました。万が一の時も、そのまま二度と起きることがない、ということも説明して、スタートしました。
スヤスヤと眠るはずのFさんの眉間にしわが寄りました。私は少しずつ薬を減らしていき、Fさんは目を覚ましました。
奥さんが聞きます。
「あなた、どうだった?気持ちよかった?」
「いや、最悪。苦しい、という言葉も出せないまま、モヤモヤしてクモの巣に絡め取られたようだった。今の方がずっといい。自分を自覚できる」
「そうよ、私はあなたにチンチン電車みたいに肩を貸してトイレに行きたいもの。頑張ってよ」
ふたりは涙をこぼしました。
「Fさん、亡くなる時は、蝶がさなぎから抜け出すのと似ている、と言った先生がいます。その時、痛みではないけど、肉体から魂が抜け出す辛さがあるんだと思うの。それが今のだるさかも。産道というトンネルから赤ちゃんが外の世界に飛び出す時も似ていると思う。生と死であたかも逆のようだけど」
「へー。俺は男だからわからんなぁ」
「たとえば、蛇の脱皮とかじゃ?肉体を抜けて次のステップへ行くというイメージ」
「それならわかる。気持ちをしっかり持って脱皮しなくちゃ」
Fさんはその後、脱皮のだるさを味わいながら静かに亡くなっていきました。
奥さんがポツンと言いました。
「ほら、先生。今日は菊花賞の日。夫はさっさと脱皮して今は馬場に飛んで行ってるわね」
亡骸(なきがら)を囲み、私たちは泣き、そして、Fさんを思って微笑みました。(なんと彼の選んだ馬券は当たっていたのです)
旅立つ時に、強制的に麻酔薬で眠らされたら、見かけは静かだけれど、意思表示もできないで、次のステップにいく努力も思い切りできずに、ご本人は辛い世界にただよっているかもしれない。この人生のエネルギーを燃え尽くしてほしい。旅立つプロセスもしっかりと自分で味わってほしい。私はそう願っているいささか患者さんに厳しいホスピス医なのです。周りは旅立つ時に「よく頑張ったね」と言いながら体を擦り、手を握ってあげてほしい。
85歳の男性に手遅れの食道がんが見つかりました。
家で静かに暮らしたい、と願いました。楽しみは一日の終わりのひと口の焼酎。「うまい!」という言葉が家族を支えました。がんのために食道が狭くなり、食べる量は減りますから徐々に痩せていきました。しかし、一日のうち少しでも庭に出て、チューリップの球根を植え続けました。
「春、花を楽しみに孫やひ孫が来るんだよ」
“俺はその時居ないね―”そんな声が聞こえた気がしました。
その男性が静かに家で息を引き取った後、家族は枕の下から広告の裏に書かれた日記を発見しました。大きくマジックで書かれた文字。亡くなる3日前にはこんなふうに記されていました。
「今日もいい日だ。明日も前向きにいく」
男性が植えた球根は未来への切符のように私たちに思えました。いのちの切符は家族にしっかり渡されたのです。
4.おわりに
在宅ホスピスケアを甲府で20年前に始めた頃は、医療界に理解は乏しく、変わり者扱いされたこともありました。死のイメージの強いホスピスケアを受け入れる人々も多くはありませんでした。ご縁のある方々にライフレッスンを果たしてもらうために、仲間と共にがんの痛みを緩和し、いのちに寄り添う実践を続けていくうちに、世の中も少しずつ変わってきました。
人生の最期に縁ある人たちに(場合によっては身内でなくても)いのちの切符を渡していく、そんなことが自分の足で生き抜く先にあったら、こんなに恵まれた幸せな人生はないな、と思えるようになりました。
いのちの鎖を繋げていくのだと思える時、恐れを乗り越えて強い気持ちも蘇ります。
現在は介護や在宅ケアについての国のシステムが整って、後押しされすぎて主体的ないのちへの向かい方が弱まっているように危惧しますけれど、それはまた別稿で考察したいと思います。
最後に・・・
ヘルマンヘッセの『青春彷徨』という作品から引用します。
死はいい頃合いを知っている、だから信頼して待っていればよいところの、賢明で善良な私たちの兄弟だ
―参考書籍―
『あした野原に出てみよう』 内藤いづみ(オフィス エム)
『いのちの不思議な物語』 内藤いづみ(佼成出版社)
『死ぬ瞬間』E.キュブラー・ロス/川口正吉訳(読売新聞社)
『ダギーへの手紙』 E.キュブラ―・ロス/アグネス・チャン訳(佼成出版社)
『トワイクロス先生のがん患者の症状マネジメント』武田文和監訳(医学書院)
『青春彷徨(ペーター・カーチメント)』ヘルマン・ヘッセ(岩波文庫)