メディア出演情報

ふわっと家で聴診器

障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」77号より抜粋
 ススキや小菊、コスモス…花がたくさん置かれているセミナーの会場。山梨県甲府市。マイクを持って語りかける、やや低めの、とても柔らかい声…。色白の、頬の線のきれいな人だなあと思った。


内藤いづみさん。医師。一九五六年山梨県生まれ。山梨県甲府市在住。甲府市内でふじ内科クリニックを開業。日本ホスピス在宅ケア研究会理事。診療所での診察、往診、がん患者の在宅ケアをしつつ、在宅ホスピスケアをテーマに全国を講演活動している。産経新聞に「最期のときを家族と」を連載中(08年10月現在)。著書『最高に幸せな生き方死の迎え方』(講談社)、『あなたが、いてくれる』(佼成出版社)他多数。
 取材者が手紙を送るとすぐに手書きのFAXが。「協力させてください。在宅のがん患者さんのいい時をみて、取材の時期を考えますので待っていてくださいね」。
一カ月ぐらい経って、今度は封書が来た。「セミナーの日に合わせておいでになりませんか?」。やった!新幹線と特急を乗つり継いで甲府の地に…。
 診療所に訪ねていくと、いづみさんは、白衣姿。スタッフの人たちと、あの柔らかい声でゆったりと言葉を交わしている。
「行きましょう」と連れられて行ったのは、普通のお家のような喫茶店(?!)。コーヒーのなんていい香り!木製の椅子にいづみさんはにっこり腰かける。
診療 ―草花の道―
 午前中は診療所で診察して…普通の風邪や血圧が高かったりする患者さんですね。午後からは往診。がん末期の患者さんを一度に受け持つのは、多くても2、3件。あとは認知症や脳梗塞。たくさんは診てないんですよ。ゆっくりやってる。緑のある方とじっくりおつきあいするっていうか…。
 病院からの紹介でいらっしゃる患者さんはほとんどないです。進行がんをかかえて私の診療所にいらっしゃる方は、私の講演を聞いたり、新聞記事を読んだり、口コミだったり。家で最期を迎えたいとか、痛くないようにしてほしいとか、病院の医者に不信感をもったとか、いろいろ悩んで、考えて、決心していらっしゃいますね。
 在宅なので、重症の患者さんには、時間を決めて、スタッフが電話を入れることにして、私の携帯電話の番号も教えます。ご家族の話を聞いたり、離れて住んでいる息子さんや娘さんに「来て手伝ってあげて」って電話したりもしますね(笑)。
 往診に行く時は、普通の格好で、ヤクル卜かダスキンのおばさんが町の中を行くように。人の家に上がり込んでおまんじゅうを食べてるという(笑)。
 患者さんが何気なくつぶやかれる言葉も聞きたいし。どんな風に痛いか苦しいか、我慢しないで言ってもらいたいし、心を許してもらいたいですしね。
 そんな風に患者さんやこ家族が、一日一日を穏やかに過ごすお手伝いができればと。
ホスピスー山からの風―
 医学生の頃から当時の医者の世界には違和感がありましたね。感じる私が変わり者なんでしょうけど(笑)。「え?!」とびっくりすることばかり。何かが違うなあと。
 研修医の頃の私は、がんの末期の患者さんを見るのがつらかった…。土気色の顔でとても苦しそうで、たくさんのチューブをつけられて…。痛み止めもなかなか処方されない。何故医者は苦しんでいるのをほっとけるんだろうと思いました。「医者は常に冷静に」みたいな教育でした。私はどうしても患者さんの苦しさに引かれてしまう。
何とかしたくても何もできませんでした…。
あそこで病院で、あのまま死ぬなんて…私なら耐えられない…。
 大学病院で勤務するようになって、末期がんで入院している23歳の女性に出会ったんです。余命3力月といわれていて。私は主治医ではなかったけれど、「このままここにいていいの?」と口にしてしまいました。
彼女は「先生、家に帰りたい」って…。その望みを叶えてあげたかった。病院では家でケアする体制などなかったから、一人で看なければならない。でも、やりたかった。
どうしても…。
 痛み止めや在宅酸素を準備して家に帰ってもらって、毎朝出勤前に往診して、時々電話をしたり。そうやって3力月後、家でお母さんの腕の中で亡くなることができたんですが…。看護師さんたちとチームを組んで看取ることができてたらどんなによかっただろうという思いが残りました…。
 それからすぐ、私の夫がイギリスに転勤になって、ついて行ったんです。
 イギリスがホスピスの発祥地で緩和ケアの先進国だとは知っていました。移り住んだ町のホスピスに行ってみてびっくり。笑顔なんです、末期がんの患者が。きちんと痛みを緩和されているから、笑って玉つきやトランプをしている。点滴もあまりしない。素敵なレストランでスープをゆっくり飲んでる。通えるし、入院もできるし、家でケアしてもらうこともできる施設でした。
 そこで非常勤のボランティアをして7年。
イギリスでの永住も考えたけれど、日本の病院で苦しんでいる患者さんのことが、気になって気になって…。私にもできることがあるかも知れないという思いがわいてきて…。
看取りー山の向こうー
 山梨へ帰り、地元の病院に勤めながら、緩和ケアや在宅ホスピスについての講演や
勉強会の活動も始めました。伝えたかったの、医療者やみんなにも。モルヒネや他の痛み止めも正しく使えば決して怖い薬ではなくほとんどの痛みは緩和できる。痛みがとれたら最期の日を穏やかに過ごせるかも知れないと。自分がもし治らない病気になって死ぬ時、どこでどういう風に死にたいか。ホスピスでも病院でも家でも、患者自身が考えて選べるという選択肢を広げていきたかった。
 でも最初は否定的な意見の方が多かったですね。「日本にはホスピスは根づかない」とか、医者からは「医者が治療を放棄して人が死ぬのをただ見ているなんて」とか。
 講演で私の話を聴いて、すぐ翌日に病院の外来に来てくれた末期がんの45歳の男性がいました。その人の言葉や望み、今も私の胸にくさびのように残っていますね…。
 私の勤めていた病院で亡くなって、「先生、ありがとう」といってくださったけれど、私は、家で亡くなるという選択肢を持たせてあげられなかった…。
 そんな思いや、気持ちを同じくしてくれる看護師さんと出会って、古い小さな所を借りて、小さなクリニックを始めました。
 病院の医者からひどく傷つけられてうちの診療所に来る患者さんもいて、私は腹が立ってその医者に電話や文書で問いただしたりしました。そうですね(苦笑)、当時は医者から陰口をいっぱい言われましたね。
「あの医者に診てもらうと死ぬよ」とかドクターデス(死)とか言われたり。今はもう少しずつ医者の理解も進んできました。
ホスピスも増えましたし。
 ただ、体の痛みは取れても、患者さんの声なき声があるような気がします…。痛みや苦しみは取ってくれた。でもこの医者はなお治してくれるわけじゃない…どうして死ぬの?って思う痛み、魂の叫びっていうのか…。その叫びはなかなか表立っては言えないと思うんです。こちらが「その苦しみがありますか」なんて質問することではないと思うんですね。潜在意識の中で私は何か気にしてるのかな…。亡くなってから夢に出てくる人たちもいるんですよ。全員「もっと生きたかった」とおっしゃいますね。私に文句を言うわけです。私は夢の中でタラタラ汗をかきながら説明している(苦笑)。
 その人の声なき声に寄り添うことができるか…。そんなことを考えます。患者さんの最期の山登りとつきあいつつ…。
人も大自然の一部なんでしょうね
―いつごろから医者を目指して
中学生ですね(笑)。幼稚園の頃から、本やマンガをたくさん読んで、世の中にはいろんな悲しみや喜びがあるんだなと。何か人間に向かい合う仕事をしたいと考えた頃に、先輩が医学部に行くと聞いて「あっこれだー」(笑)。
―執筆活動までされて…
 書くのは好きだから苦にならない。家のちゃぶ台で、汁がつかないように新聞をひいて書いてます(笑)。
―でもお忙しそうで…
 ボーッとしてる時もありますよ(笑)。けれど、緊張はいつもありますね。常に患者さんとつながっているという…。私の場合は家庭の仕事があるっていうことがメリハリになって続けられてるのかな?
―家庭が重荷になったことは?
 うーん。家庭がなければ私は死んでたでしょうね(笑)。過労になる、仕事にのめりこみすぎて。今は、3人の子のうち2人が大学生になってもうホッとしてる(笑)。それに家のことは、だんだん夫(イギリス人のピーターさん・翻訳家)が引き受けてくれて。今は比重が私の方が2割5分(笑)。
―在宅ケアがうまくいかないことは?
 家族を含めてのことだからいろいろありますよ。家族が音を上げそうだなと感じたら早めに病院を探したりします。
―ストレスは?
 そうですね。私もカウンセリング受けたいと思う時もあります(苦笑)。めったにないけど、もう、次に進めないほど傷ついた時もありました。つかれすぎると、24時間命に責任をもつって仕事はきついなあと思ったり。私も更年期だしね、肩もこるし血圧も高くなってきて(笑)。
夜中でも電話がかかったり…
 心配な患者さんがいる時は、ジャージ着て寝てます(笑)。そんな時はかえって大変だとは思わない。気が張ってるから。家族に声をかけられながら、静かに穏やかに亡くなられたら、ああ、役目果たせたかなあって…。
―1番うれしい時は?
 何もない波風のない日常。淡々と生きてる毎日が一番幸せを感じますね(笑)。
―やりたいこと
 合気道をしたいの(笑)。ソーシャルダンスも習いたい。それと、〝ひと休み村〟をつくりたいなあ。疲れた人が羽根を休めにくるところ。老いも若きもいらっしやいませって。
一つ質問する度にていねいにじっくり答えてくれたいづみさん。お家のような喫茶店は本当に居間を改造してつくられたところだった。ホッとするような空間。コーヒーを飲みながらインタビューしていると、カレーが運ばれてきた。え?「甲府まで来て、一人で夕食じゃつまらないでしょう?どうぞ召しあがって」とほほえんだいづみさん。ええ!そんな…。
 往診に向かう車にも乗せてもらった。看護師さんの運転。どこを見ても山並みが見える。いづみさんは、ニットのカーディガンに白いパンツ姿。「こんにちは~。どう?お元気でした?」。世間話をしながら、聴診器を出している。一人暮らしの認知症の女性とおしゃべり。次の重症の患者さんの家に行っても、いづみさんのゆったりした話し方は変わらない。話しながら注射を打ったり、家族の人に様子を聞いたり。
「ではね、また来ますからね」。
 花をいっぱい咲かせている小さなお家にも往診。「先生、この小菊持って帰ってえ」と差し出す年老いた女性。いづみさんはうれしそうに抱えていた。
 最後は、いづみさん主催のセミナーの打ち上げ。ワインをみんなについで乾杯!
夫のピーターさんや中学生の娘さんも一緒だった。ここでもいづみさんはユーモアたっぷりに人を笑わせている。ホスピスの語源が〝温かいもてなし″という意味だといづみさんに出会ってから知った…。
 店を出ると外は暗い。「大阪まで気をつけてお帰りくださいね」。いづみさんの頬がやわらかい曲線を描きながら去っていく。
山並みは、もう塁色に変わろうとしていた。
(取材 岡本尚子)