往復書簡(米沢慧様)Vol.7 往
春がきましたね!若者たちが新生活へ出発する月でもあり、別れの悲しみや未来への希望が混ざり合う月。風に舞う桜の花びらを見ると、日本人はなぜか感情を振り動かされるように感じます。そして、子離れを体験する春は、親たちにとってメランコリーの時でもあります。
ご無沙汰して申し訳ありませんでした。
マラソン並の体力と気力を覚悟した、産経新聞の毎週の連載が2月で終了しました。
とても遣り甲斐のある仕事でした。読者からの反響も支えになりました。
私の講話集の製作も同時に進行していて、それももうすぐひとまずまとまります。死ぬまでの5つの課題の第一を、私はこれまでこう述べています。
『自分の人生を振り返り、自分の人生を再確認する』。
それをこの半年、私自身もしてきたように思えます。
2月3月は県外への講演も多く、市民の皆様も多く参加して下さいました。“生き抜くいのち”に向かい合い、自分の病気の情報を得て、ネットワークの支援をうけて、自分らしく希望を持って暮らしていくのにはどうしたらよいか、というテーマが多かったです。「がん告知」の有無で揺れていた15年前とは日本も確かに変わりました。
主人公としての患者さんが尊重される支援体制が育つ地域が増えてきました。
先月、講演に訪れた千葉県もそのひとつでしょうし、昨日伺った諏訪市にもそれを感じました。
そうです。オカムラアキヒコとのご縁がある、諏訪赤十字病院が主催の市民公開がん講演会があったのです。がん患者さんたちが立派に発言して下さいました。この機会にアキヒコとの歴史的な関わりを少し詳しく教えて下さいませんか?
諏訪赤十字病院を拠点として、在宅ホスピスケアを目指す“レインボー”という訪問看護ステーションが患者さんと家族を支えていることがよく分かりました。そのレインボーの所長さんが、その講演会のあいさつで、こうおっしゃったのですよ。「山梨日日新聞連載の米沢さんとのファックス書簡が、私たちのこの在宅ホスピスケアの仕事に勇気と大きな刺激を与えて下さったのです」と。知らないうちに種が蒔かれ、立派に育っているようでとても嬉しく感じました。
その方はこの往復書簡のことはご存じなかったので、お伝えしておきました。きっと感想を下さるでしょう。
オカムラアキヒコが再び今脚光を浴びている意味も再度米沢さんからお伺いしたいです。今年は「死の臨床学会」でも特集されますね。
2月の初めに出版した『しあわせの13粒』はおかげ様でとても好評で、手元にある分は全て全国のどこかに大切に手渡され着地しました。たとえば、子供病院の窓辺に置かれた、とも聞いています。
今月は締めくくりの講演会が後ふたつほどあります。4月には少しゆっくりとお便りできると思います。駆け足のお便りで申し訳ありません。
たくさんの桜の花見をして下さいね。
―追伸―
次回の資料に下記を送ります。読んでおいて下さい。中3の子供が学校の授業で手渡されました。政治的なポイントより、私も「システム」についてとても興味があります。「緩和ケア」が医療の中に「システム」として組み入れられた現状に対してです。次回は具体的にお伝えできると思います。
【日本語全訳】村上春樹さん「エルサレム賞」授賞式講演全文
こんばんは。私は今日、小説家として、つまり嘘を紡ぐプロという立場でエルサレムに来ました。
もちろん、小説家だけが嘘をつくわけではありません。よく知られているように政治家も嘘をつきます。車のセールスマン、肉屋、大工のように、外交官や軍幹部らもそれぞれがそれぞれの嘘をつきます。しかし、小説家の嘘は他の人たちの嘘とは違います。小説家が嘘を言っても非道徳的と批判されることはありません。それどころか、その嘘が大きければ大きいほど、うまい嘘であればいっそう、一般市民や批評家からの称賛が大きくなります。なぜ、そうなのでしょうか?
それに対する私の答えはこうです。すなわち、上手な嘘をつく、いってみれば、作り話を現実にすることによって、小説家は真実を暴き、新たな光でそれを照らすことができるのです。多くの場合、真実の本来の姿を把握し、正確に表現することは事実上不可能です。だからこそ、私たちは真実を隠れた場所からおびき出し、架空の場所へと運び、小説の形に置き換えるのです。しかしながら、これを成功させるには、私たちの中のどこに真実が存在するのかを明確にしなければなりません。このことは、よい嘘をでっち上げるのに必要な資質なのです。そうは言いながらも、今日は嘘をつくつもりはありません。できる限り正直になります。嘘をつかない日は年にほんのわずかしかないのですが、今日がちょうどその日に当たったようです。
真実をお話します。日本で、かなりの数の人たちから、エルサレム賞授賞式に出席しないように、と言われました。出席すれば、私の本の不買運動(ボイコット)を起こすと警告する人さえいました。これはもちろん、ガザ地区での激しい戦闘のためでした。国連の報告では、封鎖されたガザ市で1000人以上が命を落とし、彼らの大部分は非武装の市民、つまり子どもやお年寄りであったとのことです。
受賞の知らせを受けた後、私は何度も自問自答しました。このような時期にイスラエルへ来て、文学賞を受けることが果たして正しい行為なのか、授賞式に出席することが戦闘している一方だけを支持しているという印象を与えないか、圧倒的な軍事力の行使を行った国家の政策を是認することにならないか、と。私はもちろん、このような印象を与えたくありません。私は戦争に反対ですし、どの国家も支持しません。もちろん、私の本がボイコットされるのも見たくはありません。
しかしながら、慎重に考慮した結果、最終的に出席の判断をしました。この判断の理由の一つは、実に多くの人が行かないようにと私にアドバイスをしたことです。おそらく、他の多くの小説家と同じように、私は人に言われたことと正反対のことをする傾向があるのです。「行ってはいけない」「そんなことはやめなさい」と言われると、特に「警告」を受けると、そこに行きたくなるし、やってみたくなるのです。これは小説家としての私の「気質」かもしれません。小説家は特別な集団なのです。私たちは自分自身の目で見たことや、自分の手で触れたことしかすんなりとは信じないのです。
というわけで、私はここにやって参りました。遠く離れているより、ここに来ることを選びました。自分自身を見つめないことより、見つめることを選びました。皆さんに何も話さないより、話すことを選んだのです。
ここで、非常に個人的なメッセージをお話することをお許しください。それは小説を書いているときにいつも心に留めていることなのです。紙に書いて壁に貼ろうとまで思ったことはないのですが、私の心の壁に刻まれているものなのです。それはこういうことです。
「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」ということです。
そうなんです。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます。他の誰かが、何が正しく、正しくないか決めることになるでしょう。おそらく時や歴史というものが。しかし、もしどのような理由であれ、壁側に立って作品を書く小説家がいたら、その作品にいかなる価値を見い出せるのでしょうか?
この暗喩が何を意味するのでしょうか?いくつかの場合、それはあまりに単純で明白です。爆弾、戦車、ロケット車、白リン弾は高い壁です。これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たちが卵です。これがこの暗喩の一つの解釈です。
しかし、それだけではありません。もっと深い意味があります。こう考えてください。私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。私もそうですし、皆さんもそうなのです。そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。
私が小説を書く目的はただ一つです。個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てることです。小説を書く目的は、「システム」の網の目に私たちの魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。私は生死を扱った物語、愛の物語、人を泣かせ、怖がらせ、笑わせる物語などの小説を書くことで、個々の精神の個性を明確にすることが小説家の仕事であると心から信じています。というわけで、私たちは日々、本当に真剣に作り話を紡ぎ上げていくのです。
私の父は昨年、90歳で亡くなりました。父は元教師で、時折、僧侶をしていました。京都の大学院生だったとき、徴兵され、中国の戦場に送られました。戦後に生まれた私は、父が朝食前に毎日、長く深いお経を上げているのを見るのが日常でした。ある時、私は父になぜそういったことをするのかを尋ねました。父の答えは、戦場に散った人たちのために祈っているとのことでした。父は、敵であろうが味方であろうが区別なく、「すべて」の戦死者のために祈っているとのことでした。父が仏壇の前で正座している輝くような後ろ姿を見たとき、父の周りに死の影を感じたような気がしました。
父は亡くなりました。父は私が決して知り得ない記憶も一緒に持っていってしまいました。しかし、父の周辺に潜んでいた死という存在が記憶に残っています。以上のことは父のことでわずかにお話できることですが、最も重要なことの一つです。
今日、皆さんにお話したいことは一つだけです。私たちは、国籍、人種を超越した人間あり、個々の存在なのです。「システム」と言われる堅固な壁に直面している壊れやすい卵なのです。どこからみても、勝ち目はみえてきません。壁はあまりに高く、強固で、冷たい存在です。もし、私たちに勝利への希望がみえることがあるとしたら、私たち自身や他者の独自性やかけがえのなさを、さらに魂を互いに交わらせることで得ることのできる温かみを強く信じることから生じるものでなければならないでしょう。
このことを考えてみてください。私たちは皆、実際の、生きた精神を持っているのです。「システム」はそういったものではありません。「システム」がわれわれを食い物にすることを許してはいけません。「システム」に自己増殖を許してはなりません。「システム」が私たちをつくったのではなく、私たちが「システム」をつくったのです。
これが、私がお話したいすべてです。
「エルサレム賞」、本当にありがとうございました。私の本が世界の多くの国々で読まれていることはとてもうれしいことです。イスラエルの読者の方々にお礼申し上げます。私がここに来たもっとも大きな理由は皆さんの存在です。私たちが何か意義のあることを共有できたらと願っています。今日、ここでお話する機会を与えてくださったことに感謝します。ありがとうございました。
(訳=47NEWS編集部)