最期のときを家族と 60年住んだここにいたい
本山よしさん(91)=仮名=は、私の診療所近くにお住まいだった。人生で入院したことはないという。30代で夫を亡くし、女手ひとつで3人の子供を育て上げ、老後は長女夫婦と穏やかな暮らしだった。
そんなある日、「末期の膵臓がんで、余命2カ月」と診断され、本人にも告げられた。娘さんは悩んだが、本人は私の著作を読んでいて、「この先生に、在宅ホスピスを頼んでほしい」と希望したという。初めて往診した日、本山さんは薄紫色に染めた髪で、ベッドの上に毅然と座っていた。壁には、彼女の大きな顔写真が飾られていた。
「まるでお葬式に使うような?」と、感じたのに気付いたのか、本山さんは「行きつけの美容院で髪を染め、パーマをかけて撮ったんです。動けるうちに、と。来るべき時には、この写真を使ってもらいます。良い写真でしょ?」と笑った。
「ええ、良い写真」。うかつにも、ロが「その日が待ち遠しいですね」などと滑りそうなほど、場は明るかった。「私は60年ここに住み、最期までここにいたいんです。病院で死ぬのは嫌です」と真剣におっしゃった。
枕元に私の本が何冊も置いてあった。本山さんは見舞いに来る近所の人や親戚に、「在宅ホスピスを知りたければ、これを読みなさい。私が実践例よ」などと語ったらしい。
往診を続けるうちに、緊張していた家族も、病人との暮らしに慣れてきた。「不思議だね、元気だね」などと話しながら、平和に日々が過ぎていった。
「先生、私はもう、いつでも大丈夫。寿命ですよ。覚悟してます」。本人はそうおっしゃるが、娘さんがこっそり「たまに寝付けない日があると、仏さんの前で手を合わせて、『生かしてください』と拝んでます」と教えてくれた。
孫もひ孫もやって来て、周囲は笑いに満ちていた。何カ月かたち、トイレに歩いていくのがつらくなったとき、小さなため息が出たという。「鮎が食べたい」と言ったある日は、友人の釣った鮎が夕食に供された。
「うまい」と平らげるのを見て」家族も喜んだ。「ありがとう、今夜はうれしかった。おやすみ」。そう告げて眠り、朝は起きてこなかった。2日間昏睡し、亡くなった。幼いひ孫たちが本山さんを囲み、耳元で「おばあちゃん、ありがとう!」と別れを告げた。知り合って10カ月目のことだった。
2009年1月21日 産経新聞より抜粋