米沢慧さんとの往復書簡

往復書簡(米沢慧様)Vol.4 復

米沢慧様
お忙しい中、書簡ありがとうございました。
確かに、12月になり私のところに届く喪中のハガキも、今年は例年より多い気がします。それより私(昭和31年生まれ)の親世代が80歳を越え、同級生からの介護関連の相談が増えています。私の母も87歳。やっと説得して、先日介護認定を受けてもらいました。


ひざが悪くなり、お風呂やトイレに手すりを付けた方がよいと、皆が感じるようになったのです。戦争を体験した母の世代は、忍耐・努力の根性が違います。ずっと「大丈夫、心配しないで。」を私たちに繰り返していました。「老い」に必要な「ケア」を認めてもらうのに時間が掛りました。認定をもらうのを母が嫌がっているように私も思っていました。周りのご老人には、定期的に往診で医療チェックに行っているのに、車で片道一時間の母のところにはなかなか行けず、今回の介護認定を機会に少し、医師の目を持って母の老いの日々を見守ろうと思っています(・・・とはいえ、気丈な母の前では、ただの娘になってしまうんですよ)内心、私も母の「老い」を認めたくなかったのかもしれませんね。
先日、一年を締めくくる書簡にします・・・などと大胆にも言ってしまいましたよね。忘れて下さい。(笑)
今年は大きな仕事をいくつか引き受けました。中でも、秋から全国版の新聞に毎週エッセーの連載を引き受けたのは、大きな出来事でした。いのちの選択を日常の言葉で伝えることを目指しています。医者はどうしても難しい言葉を使いたがりますからね。私自身も要注意です。尊敬する永 六輔師匠からも言われています。難しいことをやさしく、やさしいことを深く、と。
この20年近く、多くの一般市民の方に講演をしてきました。そうです。私の出会った「いのちの物語」を伝えています。多分これまでで700回近くになります。連載を引き受けたのは、私のホスピス学校で学んだことのひとつの集大成でもあるかな、と思って引き受けたのです。
上の子供ふたりが大学生になり、家を離れました。15歳の次女だけ残っています。とても寂しいけれど、肩の荷が軽くなったのも事実で、それで大胆にもこんな大仕事を引き受けたのかもしれません。秘密ですが(!)、私が判断したところ、夫は空の巣症候群をしばらくの間患っていました。
五木寛之氏のいう、インドの人生区分でなぞらえると、学生期・家住期・林住期・遊行期。私と夫も林住期に入ったのかもしれません。この辺りからきっと喪中のハガキが増えるのでしょうか?
連載では、いのちの主人公の皆さんを思い出しながら書き進め、どの方も私にとってはいのちを学ぶ先生であったことを心の中で再確認しました。困難ではあるけれど、ご家族との山登りのような看取りの共同作業でありました。
しかし米沢さん、ここに来て社会的な変化が起きています。現場の私だからこそ感じる変化です。なぜ責任の重い「在宅ホスピスケア」を続けるのか、と問われれば、いのちの学びをするためだと私は答えるでしょう。患者さんと家族と、私たちとの信頼関係だけが後ろ盾です。米沢さんも老いた親御さんたちに関わり、介護保険や訪問看護ステーションのことをご存じかと思いますが、このシステムを使うためにはきちんとした書類とサインによる契約書を交わすことがスタートですよね。私からみてもかなり丁寧で(面倒そうな?)書類です。
しかし、たとえば私が飛び込みの、かなり危険な状況の末期がん患者さんを引き受けるとしたら、そこに書類やハンコなどないのです。「信じてくれますか?」「はい」という形だけです。病院などでは手術やリスクを伴う処置の時には同意書がありますが、患者が主体的に私たちのような在宅ホスピス医師を選び、「信じます。よろしくお願いします。」という出会いこそが私たちが困難を乗り越えるためのエネルギー源であり、誇りなのです。それが変わってきました。まず国が積極的に入院短縮を進め、在宅ケアへシフトしています。心の用意も受け入れも充分でない方々が、望まないのに家に戻されてきています。
特に、進行がん患者さんをトータルに支える、つまり、体・心・社会・魂の痛み(トータルペイン)に向かい合う在宅ホスピス医療者はまだ全国的に多くありません。そういう中で、在宅で関わる訪問ナースたちが、苦しむ患者さんを引き受けた時、家族を説得し、私に在宅主治医を依頼してくることも最近多くなりました。そのナースたちは、それ以前私と共に一生懸命に在宅の看取りに関わり、やり甲斐と充実感を体験していました。「内藤先生なら、何とかしてくれるかも。私たちがこの患者さんを見捨てるわけにはいかない―」と。
感情労働とも言われるナースの仕事には頭が下がります。熱い心を持った人も多いです。私がそういうケースを引き受けて鎮痛薬の調整をし、患者の状況が改善されても何か空気がおかしいのです。そこに家族の存在が薄いのです。往診の時に説明したくても誰もいないこともあります。その家族と患者が私を選んだのではなく、ナースが選んだからだと気づいたのはずっと後でした。
ある家族にとっては、病院で看るよりずっと楽でしょう。経済的負担も入院より安い時もあります。ケースによれば、情厚き、親切なナースにほとんど任せきり・・・ということもありました。私たちは家族と患者と交わす信頼関係という確かな保証書がない限り、在宅でのいのちの看取りは肉体的な疲れだけを残す仕事になってしまいそうです。これは愚痴ではなく、おそらく全国でも増えていくケースではないかと危惧を抱いています。どんなに心身が疲れても、私たちに「出会いの感謝とやり甲斐」があれば、何とか回復していけます。今のところ全国的に多くない在宅ホスピス医が、こういうケースをたくさん抱えていくと、燃え尽きて勤務医と同じ「立ち去り」のようなことになるのが心配です。
現代ホスピス創設の母とも言われるシシリー・ソンダースはホスピスの定義をこう言っています
1)患者をひとりのトータルな存在の人間として扱う
2)痛みはもちろん、不快症状の改善に力を尽くす
3)不適当な治療を避ける
4)家族を含めたケア
5)1)~4)を行うチーム医療、それは病院でもホスピスでも家でもできる
いのちに向かい合う、ということはいのちに関わる全ての人たちの学びの場でもあるのに、家族の姿が見えない!今年、私が2,3度心身共に疲れたひとつの原因でもありました。
今年は日本財団から助成金を頂いて、自主企画で4回に渡る在宅ホスピスケアセミナーを主催しました。1回目にはアルフォンス・デーケン神父が講演に来て下さいました。神父は人間の尊厳をこう定義しました。
① 自分の頭で考えることができる
② 自分で選択することができる
③ その結果を感謝し、愛することができる
知り、考え、選ぶ。家に居ることを選ぶ。主治医に私を選ぶ。それこそ、互いに尊厳ある関係の始まりだと思います。
年の終わりなので、ゆっくりと読んで頂いてもいいですよね。少し続けます。
昔、私が出会った患者さんの思い出をひとつ、本から転載します。危篤に近い状況で本人と交わした「信頼」の確認。それは今となると貴い思い出です。
こんな出会いでした。
朝早い時間に受付の電話が鳴りました。
「先生、何か大変な状態なんですって。すぐ行きますから待ち時間なしで診療して下さいと言って、切れてしまいました。もう近くまでいらしているみたいです。とても切迫した声でした。」
電話を受けた事務の係が伝えてくれました。それを聞いた5名のスタッフ全員に緊張が走りました。数分後にクリニックのドアが開き、男の人がぐったりとした女性を背負うようにして入ってきました。それが三上さん(45歳)との出会いでした。私たちはすぐに彼女を抱えると、診察室へ運び込み、診療台に横になって頂きました。顔色は蒼白、もう口をきく力も残っていないのでしょう。?せ衰え、精根尽き果てて、このまま永遠の眠りに就くかのように、眉間に深いシワを寄せ、じっと黙って目をつむっています。
苦痛に打ち負かされる寸前の顔です。ご主人と息子さんが付き添っていましたが、ふたりとも憔悴しきっています。どうにかしなきゃ。当時の私はドキドキしたことを思い出します。紹介状も何もなくて、医学的にはっきりした病状は全く分かりません。
「奥様は今、限界に近い危険な状態のようです。すぐに処置を始めないと、苦痛のためにいのちを縮めるかもしれません。病気の経緯、そして大切なことですが、なぜここにいらしたのか、何を私たちに望むのか、そしてご本人の希望は何なのかを手短に教えて下さい。」
三上さんのご主人は、混乱した頭の中を整理するかのように、大きく二回深呼吸し、息を整えながら、病気の経緯を説明し始めました。
「―1年前に肺がんと診断されて、本人も納得して片肺切除の手術を受けた。入院中、気管視鏡検査がとても苦しかった。だからもう辛い検査も入院もしたくない、と本人が言っている。病名については告知を受けている。片肺切除の手術後、次第に呼吸困難、胸部痛、腹痛が増してきて、苦しみや痛みのない日は今日まで一日もなかった。こちらもパニックで、上手く辛さを医者に伝えられなかったかもしれない。最近では、食事も摂れないほどの苦痛が一日のうちの大半を占めるようになった。苦しくて、何日も充分に寝ていない。ほとんど食べていない。家族もよく寝ていられない。昨晩は本人が、苦しすぎてもう生きていたくない、死んだ方がましだ、としきりに訴えた。家族もそれを聞いてとても辛かった。それでも本人は、病院へ入院したくないと言い張る。先生のことを思い出した。困り果てて連れてきた。何とか助けて欲しい。紹介状はない―」
そういう話でした。ご主人にも、全身に疲れがにじみ出ていました。治療を始めるに際して、私は横たわる三上さんの傍にひざまずいて、大切なことを聞かなくてはと思いました。
「三上さん、お会いしたばかりで申し訳ありませんが、ひとつだけ確認したいことがあります。今、とてもお辛い状態ですね。私たちも何とかお役に立ちたいと思っています。最善を尽くします。信じて任せてくれますか?」
彼女は目を薄く開き、私を見ると弱々しい声で「お願いします。」と言いました。こういう状況では、信頼関係という見えない契約書しか交わせないのです。
取り急ぎ、その場で緊急の痛み止めの処置をしました。痛みに打ち負かされそうな症状になっているのに、今まで鎮痛剤もほとんど導入されていないことが分かりました。応急処置をして、その場の痛みだけは抑えるようにしました。
「取りあえず、今日のところはご自宅に帰っても大丈夫です。ごめんなさい。私のところに入院施設はないのです。また痛みが出てきますから、継続的に鎮痛薬を投与することにしましょう。それでだんだん痛みはなくなります。これから看護師が家へ付き添って行って様子を見ます。不安な点はなんでも看護師に伝えて下さい。」
同行する看護師さんと、万一、痛みが取り除けない場合の処置について打ち合わせました。
先程の緊急処置で少し楽になってきた三上さんをしっかりと抱え、ご主人と息子さんは家路に着きました。三上さん一家が無事に帰ったことは、同行した看護師さんから経過報告と一緒に知らされていました。ただし、その後に連絡が入ったらすぐに対処できるようにと、携帯電話を枕元に置いて、服はそのままその晩は寝ることにしました。
朝一番、三上さん宅のほど近くに住む看護師さんに、様子を見に立ち寄ってもらうと、「久し振りにぐっすり寝られたと喜んでいた」との報告を受け、どうにか苦しみを緩和して、いのちを引き止めることができたと、ほっとしました。がんの苦しみは、このように生きる希望さえ奪うのです。
その日から、私と看護師さんが訪問し、痛みをコントロールすることに専念しました。その甲斐あって、症状は見る見る改善されて、クリニックに見えてから4日目、三上さん宅に伺っている看護師さんから、こんな電話がありました。いつも落ち着いている彼女のはしゃいだ声です。
「先生~!今、私たち何をしてると思いますか?甲府で一番美味しいショートケーキを食べてま~す。信じられますか?」
「まあ、それは良かった。おめでとう!」
痛みがほとんど消えたということです。思わずクリニックのスタッフ全員に、
「三上さんがショートケーキ食べてるって!」
と、大声で報告していました。私が在宅で引き受けることができる重症の患者さんは、多くて3人位です。それ以上になると、満足できるきめ細やかなケアができなくなります。そして、うちのスタッフは、関わっている患者さんの状態を皆が共有するようにしています。
「やったねっ!」
思わず、皆で手をたたくほどの嬉しい気持ちです。三上さんは、激痛が緩和されたことによって、生き生きとした表情を取り戻しました。一日一日進行しているがんですから、今日は良くても明日のことは分かりません。でも、患者さんが輝く瞬間に出会うことができるから、時間無制限の仕事という状況にも耐えられるのです。私を信用して下さった三上さんに何とか応えることができ、心から良かったと思いました。後で往診に行くと、少し体力が消耗している様子はありましたが、痛みの消えた、落ち着いた良いお顔しています。
最初にかつがれて来た時の、辛そうな三上さんとはまるで別人のようです。布団の上に座って、病人とは思えない自然な表情で、私を迎えて下さいました。たいへん礼儀正しい方なのです。
「先生、痛みがないって素晴らしいですね。地獄から帰って来た気分です。」
「まあ、良かった。・・・・じゃあ、生還したばかりのところで申し訳ないけど、三上さんはこれからどうしたいですか?」
この質問が大切なのです。つい先日までは自暴自棄になったり、投げやりになってしまいがちだった患者さんに、生きる勇気や希望を掴み直してもらうためにも、この質問をしておく必要があるのです。
三上さんはしばらく考えてから、こう言いました。
「些細なことかもしれませんが、家族の洗濯物を畳みたいんです。」
それから2週間ほど、ご主人とお子さんたちが洗濯物を干し、夕方取り込むと、それを三上さんはゆっくりと畳んで過ごしていました。家族と一緒に食卓も囲みました。痛みの限界まで経験して生きることに絶望していた三上さんですが、日常の暮らしの中で実感できる温かな家族とのひとときに、自分らしさを取り戻せたのでしょう。
「あの時の苦しみは何だったんでしょうね。こんな穏やかな日々が訪れるとは思ってもいませんでした。それに、喉元過ぎれば熱さ忘れるって本当ね。楽になったら、昔の苦しさもケロッと忘れてしまったわ。」
と、三上さんはついこの前までの激痛にさいなまれていた日々を振り返って、私に告げるのでした。
「もっと早くホスピスケアを受けさせたかった。そうしたらもっと前から平穏な日々を送れたのに。大切な時間を無駄にしてしまった気がします。」
と、ご主人がぽつりと言います。現在はホスピスケア、緩和ケアの知識と実践が普及してきているので、これほどの痛みを放置されることは少ないと思います。
ところで、穏やかな時間を過ごすと、家族は残されたいのちが短いということが信じられなくなるのです。もしかしたら、このまま元気になるのではないか、との期待も大きくなります。息子さんが声をひそめて私に聞きました。
「先生、本当に母のいのちは短いんですか?以前の母でしたら、病状が深刻で、すぐにでも死んでしまいそうでしたが、今の母は苦痛を訴えることもなくなりました。もしかして、このまま食事も摂り、元気になって良くなるということはないんですか?」
「そうですね。・・・でも、これは残念ながらがんが治っているということではないのです。今は、お母さんが最後のいのちを輝かせている時間。大切な人との『仲良し時間』とも私たちは言います。」
「仲良し時間?」
息子さんが問い直します。末期がんの患者さんに触れたことのある医療者でしたら、死が近づいた患者さんに、あたかも快復したかのような、力強く、清らかなひとときが訪れていることに気付くはずです。そのひとときを、鈴木秀子シスターは著書『死にゆくものからの言葉』(文藝春秋刊)の中で「仲良し時間」と呼んで、この世を去る準備、人生の最後のメッセージを残す時だと書かれています。ところが、それは呼吸を合わせるくらい患者さんと寄り添う時にはじめて気付く、かすかな合図です。私たちは、それを一番捉えやすい場所が「家庭」なのだと感じています。
3週間ほど過ぎると、三上さんは再び横になる時間が多くなりました。洗濯物を畳んだのは、梅雨の晴れ間のように短い時間だったのです。私はお母さんのいのちが短くなってきたこと、これからは大事な人たちだけでお母さんを囲んであげるように、後悔のないように手を尽くして介護するように伝えました。娘さんと息子さんはちょうど学校が夏休みで介護に専念しています。ご主人もできる限り付き添い続けました。妻を、母を、大切にケアする家族の真剣さに、私たちも心を打たれました。三上さんは、自分のことより家族のことばかり心配します。
「ごはんはちゃんと食べているの?」「お父さん、仕事はだいじょうぶ?」
夜は、子供たちがお母さんの横で手を繋ぎ、ご主人は奥さんの足元に寝ます。三上さんはやがて昏睡状態になり、ほとんど口をきくことができなくなりました。でも、声を掛けると目を開けたり、頷いて返事をします。ご家族は、三上さんの最後の日々を全て目に焼け付けておくかのように見守り続けました。ただ寝ているだけでも、口をきけなくても、家族にとってかけがえのない大切な存在でした。三上さんも、いつも家族のことを想っているという気持ちを充分伝えていました。時折、別れる辛さを訴えるように涙も流しました。ご主人と子供さんたちのことが心配で、なかなか旅立てないのかもしれないとも感じました。しかし、いのちのバトンはいつの間にかしっかりと渡されていたのだと思います。やがて三上さんは家族の愛に包まれて、その愛を確認しつつ、45歳の生涯を静かに閉じました。
若くして亡くなることは辛く残念なことです。諦めきれない、悲しいことです。でも、家族とずっと一緒に過ごし、最後のいのちを輝かせた三上さんのことを、私たちはずっと忘れることはありません。
このような仲良し時間を共有する余裕を日本人は取り戻せるのでしょうか?
今年観た映画、というより、その原作で心に残っているのは『ライラの冒険』ですね。全集を読みました。暮れに時間がありましたら、ぜひどうぞ。壮大なストーリーです。魂に迫る物語です。同時にライラの成長に泣けます。そもそもこの書簡は“キュブラー・ロス”をめぐるテーマでしたね。なかなか彼女の仕事に行きつけず、何か収拾がつかなくなる広がりの予感?も。しかし、恐い編集者はいないし、それもいいですかね?楽しみにして下さる読者の反響も届いておりますし(・・・と強気で)。暮れと正月にお楽しみで占いの本なんかを読むことはありますか?私はあまり凝らない方なのですが、今回初めて『誕生数秘学』はづき虹映著 というのにはまってしまいました。それはキュブラー・ロスのせいです(!)手短に話すと、ピタゴラスに遡る歴史ある占いらしい(エヘン!)西暦の誕生日を1~9までのひと桁番号に分類する占いです。ただし、11・22・33のぞろ目だけはそのまま(神聖、スピリチュアルな番号らしい?)。お遊びにしてみたら、私は33でした。これだけではよく分からないでしょう?33の性格の説明を聞いて下さい。
「世間の常識に囚われない自由人。祈りの人。人類の愛の奉仕者。多くの人の人生に影響を与える人。「無償の愛」をこの世に表現するために生まれてきた人」
ここを読んで、これはキュブラー・ロスのことだ!と思いました。ご存じのように彼女は「アンコンディショナル ラブ(無条件の愛)」を唱えてきましたから。それで彼女の誕生番号を調べてみたら・・・何と、33番!!私と同じ!
それで急速にこの占いを信じてしまったわけです。(笑)(遊びの範囲です。ご心配なく)3ヶ月ほど、この占いは私の周りでブームになりました。ちなみに、私の尊敬する、シシリー・ソンダースは11番。『沈黙の春』を書いたレーチェルカーソンは22番です。ね!何かこの占い、おもしろそうでしょう。しばらくのめり込んだ私の気持ちが分かりますでしょう?
何となく、キュブラー・ロスの変人的な(失礼!)先鋭さ(特に医師に対する批判の強さ)などに、私は改めて共感できたりしました。どんなにモルヒネなどの痛み止めを使いこなせる技術と知識があっても、苦しむ人に対する愛と共感がない限り、いのちを支える働きにはなり得ないのです。情の薄い医師たちについ批判的になる私も、この占いを読んで気持が楽になりましたので報告でした。
年末ということもあり、私のこの返事も少しはめを外したものになりました。お許し下さい。
緒形 拳さんが出演したテレビドラマの『風のガーデン』が話題ですね。私の旭川の友人(病気療養中)の主治医が在宅医の演技指導をしたそうです。ドラマに出てくるガーデンも素敵と評判です。それも友人の友人の手によるものとか・・・。そんな話を聞いて、リアリティを感じます。もし、録画してあったら貸して下さいますか?
では最後に、詩人 谷川俊太郎さんと徳永 進医師の往復書簡集より、詩を抜粋します。このおふたりの響き合う感性はとても素敵ですね。
谷川俊太郎『詩と死をむすぶもの』朝日新書より
さようなら
私の肝臓さんよ さようならだ
腎臓さん膵臓さんともお別れだ
私はこれから死ぬところだが
かたわらに誰もいないから
君らに挨拶する
長きにわたって私のために働いてくれだが
これでもう君らは自由だ
どこへなりと立ち去るがいい
君らと別れて私もすっかり身軽になる
魂だけのすっぴんだ
心臓さんよ どきどきはらはら迷惑かけたな
脳髄さんよ よしないことを考えさせた
目耳口にもちんちんさんにも苦労をかけた
みんなみんな悪く思うな
君らあっての私だったのだから
とは言うものの君ら抜きの未来は明るい
もう私は私に未練がないから
迷わずに私を忘れて
泥に溶けよう空に消えよう
言葉なきものたちの仲間になろう
では、今年はさようなら!
来年もよろしくお願いします。