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進化系の女たち

結婚後、夫の故郷の英国に渡った内科医の内藤いづみさんは現地で学んだホスピスを日本にも広めるために一家で帰国。一九九五年に甲府市にクリニックを開業し、在宅ホスピス医として「その人らしい命の最期」を支え続けてきました。


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命の灯火に必死で向き合って
最期まで生ききるための医療

 末期癌などで積極的な治療ができない段階になった時、延命のためにいくつもの管につながれ、病院のベッドで痛みと孤独に苦しみながら亡くなっていくーそんな日本の医療の現実に疑問を抱き、「最期は自宅で」と望む患者と家族を全力でサポートする医師、内藤いづみさん。生れてくる命に手を貸す助産師がいるように、命の最期に寄り添い、心の通った看取りを行う在宅ホスピスの専門医として、安らかで幸せな死を迎えるための、その人らしく豊かに命を生ききるための医療活動の実践に取り組んできた。
「最新の治療によって痛が治る患者さんもいますが、治らない進行期を迎える方々も少なくありません。もちろん家族が一分一秒でも長く生きてほしいと願うのは当然のこと。
今、末期癌の痛みはモルヒネなどの適正な使用でほぼ緩和できますから、私は医療者として、関わった患者さんの身体的な痛みだけは最低限、取り除いてあげたい。でも、患者さんが心の痛みや社会的な痛み、魂(スピリチュアル)の痛みを乗り越えて安らかに旅立っていくためには、家族や医師、看護師など周囲で支える人たちが、その昔しみに向き合って共感し、最期の瞬間まで一人の人間として尊重することが大切です。自宅で最期を迎えるには、医療の専門チームの存在とともに、患者本人の意思と家族の覚悟が必要ですが、人間には本来「死ぬ力」も「看取る力」も備わっているはず。皆で力を合わせて自然な臨終を迎えられた時、決して死は医療にとっての敗北ではありません」
 内藤いづみさんは一九五六年、山梨県の六郷町(現・市川三郷町)で生れた。教員だった父の義太郎氏と母の富士丸さんは、教職員組合の幹部として活動を共にしていたが、一九四人年の結婚を機に退職して魚屋を開業。店を発展させながら、義太郎氏は三十人歳の若さで町の教育委員長を、富士丸さんは町の商工会の中に女性部を設立して、のちに初代婦人部長を務めるなど、二人そろって社会的な活動にも積極的に取り組んでいた。
「私が幼稚園児の頃、同居していた祖母が自宅で亡くなり、その後、母が乳癌を患いました。その時の『命って何なのだろう?』という幼いなりの疑問が、私の原点かもしれません。本を読むことと外国語の勉強が大好きな文系少女でしたが、『人の生死に関わるやりがいのある仕事、人の心も体も丸ごと引き受ける仕事がしたい』と思い、医者を目指すことに決めたのは中学生の時です。女性の自立、男女平等をモットーとする両親の下で育った私は、母のように家庭と仕事を両立させる人になると決めていました」
一人ひとりの豊かな命の輝きを
明日につなげるために力を尽くす

 いづみさんが高一の時、四十九歳の義太郎氏は脳溢血で倒れ、急逝した。突然、改装間もない店舗と大勢の従業員を託されることになった富士丸さんは、夫の四十九日を機に五十歳で運転免許を取得。小型トラックで仕入れに駆け回って商売を続け、いづみさんと四歳下の長男を育てた。
「私は福島県立医大に進みましたが、人間を臓器に分割して知識を徹底的に叩き込むだけで、人間を人間そのものとして見る視点がない授業には違和感を持っていました。学生たちの関心も最先端の医療や研究に向けられ、命や心の問題を語り合える仲間もいませんでした。卒業後、東京の三井記念病院での二年間の研修を経て、東京女子医大病院の内科医となりましたが、『これが私の志した医療なのだろうか』という疑問は大きくなっていくばかりだったのです。死に向き合った患者さんの痛みを理解し、寄り添うための医療は教えてもらえず、どうすればいいのかわからない私は、ただオロオロするだけ。週刊誌で作家の遠藤周作先生(故人)の『心あたたかな病院がほしい』という文章を読み、思いを綴った手紙を送ったのは、この頃でした」
 いづみさんは一九八五年、学生時代に知り合って以来、文通を続けていた英国人のピーターさんと結婚。ピーターさんは当時、石油会社の地質調査官として日本に派遣されていたが、翌八六年、英国本社への転勤が決まった。
「私は学生時代から、結婚相手は、危機に見舞われた時に、その人を信じて一緒に逃げられる人でなければ、と思っていました。私と大病院の御曹司との結婚を画策した母のために、お見合いも三回ほどしましたが、頼りないお坊ちゃんばかりだったから、わざと断わられるように振る舞ったんです。(笑)それまでの私は、母が望むように歩んでいたからピーターとの結婚を大反対されたし、彼と渡英すると言った時は本当に悲しそうだった。でも、医療に対する閉塞感や失望感でいっぱいだった私は、ここで一皮、人生を白紙の状態にしてみようという気持ちだったんです」
 いづみさんが夫の故郷、英国北部スコットランドのグラスゴーで暮らし始めた頃、近代ホスピス発祥の地である英国ではホスピスを立ち上げるムーブメントが盛んだった。
「私は渡英二年目に長男、四年目に長女を出産し、子育てをしながら、ボランティアの非常勤医師としてホスピスでの研修を続けました。そこで目の当たりにしたのは、日本なら病院のベッドで寝たきりの末期癌の患者さんたちが、ホームドクターとスペシャリストナース、地域のボランティアに支えられ、自宅で幸せな最期を過ごしているという現実。やっと自分の目指す医療に出会うことができた私は、もう一度、日本の医療の第一線で働きたい、日本にもホスビスを広めるための社会的な行動を起こさなくては、という思いがどんどん強くなっていきました」
 いづみさんの熱意を理解してくれたピーターさんは転職を決め、一家四人は九一年に帰国。いづみさんが中学、高校時代を過ごした甲府市に居を構えた。市内の病院に勤めたいづみさんは翌九二年、有志と「山梨ホスピス研究会」を発足させ、九三年には次女を出産。九五年に拠点となる診療所「ふじ内科クリニック」を開設して院長となり、在宅ホスピス医の活動をスタートさせた。
「院長といっても、クリニックの医者は私一人きり。午前中は外来診療をして、午後から往診に回りますが、二十四時問体制となる重症の末期患者さんを在宅ホスピス医として診られるのは二、三人が限界です。医師会にも入らないはみ出し医者の私は、自由な立場でかなり大胆な発言もしてきましたが、地位も名誉もお金もない。『日本一貧乏な医者』って言われていたこともあるんですよ」(笑)
 地元の大学で英語を教え、翻訳の仕事もしながら、今では家事やご近所付き合いも山梨弁も達者にこなす夫と、それぞれの個性を発揮し、巣立ちの季節を迎えている三人の子どもたちがいてくれたからこそ、責任の重い「命の最期の日々に全力で寄り添う仕事」に打ち込み、たくさんの感動や希望を受け取ってこられた。命のメッセージを届けるため、激務の中でも時間をやりくりして全国各地から声がかかる講演に赴き、元文学少女で筆まめの力量を生かして著作も多数。大人が真剣に命と向き合う姿を子どもたちに伝えることが教育の第一歩と考えて山梨県教育委月を引き受け、父と同じように教育委貝長を務めたこともある。
 父と母に学んだ「考え続けること」「諦めないこと」「実践すること」「伝えること」を心に刻み、内藤いづみさんは、一人ひとりの「豊かな死」を「明日の輝く命」につなげ、社会全体が安心して最期を過ごせるホスピスとなることを願って、力を尽くし続けている。
命は最期の一瞬まで「生きたい」と願うようにつくられているし、いかなる時にも、成長を続ける力が与えられている。私は心から、それを「希望」と呼びたいのです。
ミセス12月号より抜粋