米沢慧さんとの往復書簡

往復書簡(米沢慧様)Vol.3 復

米沢さんへ
今日は快晴、秋晴れです。猫のようにひなたぼっこしたい気持ちです。
お便りありがとうございました。


緒形 拳さんの死は、ターミナルケアを日常的に行っている私の目からみても“あざやかなエンディング”と思いました。同時に、あの結末までに緒形さんの生き方を支えてくれる医療チームとご家族の力の大きさをその背景に感じました。
病を得ると(重病であればあるほど)どのような最後の日々を送れるかは、いくら綿密に考えても自分の計画通りにはいきません。いのちのあり方は、予想不可で不思議な展開を起こします。人知で左右できるものではないなぁと。
私がご老人の参加の多い講演会で、見事に生き切った患者さんの人生をお伝えすると、講演後に
「先生の患者さんになります。ぜひ、あんな大往生にして下さい。」
などと申し込みに来る方がいます。
「そうできるかは、今お約束できないのです。もちろん、ご本人も家族も私たちも、安らかに過ごせるように最大限の努力をしますが、最期の息をどのように引き取るかは、まさに神のみぞ知る、なんです。」
などと答えますと、ポカンとする方もいますし、
「私は真面目に働き、家族も大切にして、且つ、人に奉仕する人生を送ってきた。それに値する最期をむかえられんのか!」
などと怒りだす人もいます。確かにお怒りはもっともですが・・・。
昨夜は自分が自主企画する、連続在宅ホスピスケアセミナーを開催しました。
“いのち”を考えるセミナーです。同時に、医療者の実践力も養いたい。そんな欲張りな私の思いを込めたセミナーです。(参考にプログラムを添付しますね。)
4回目の講師は、鈴木 勉さんという、モルヒネを安心して使いこなせるための基礎的研究を進めて下さっている薬学博士。力強いお話でした。
もうおひとりは、鈴木秀子シスターでした。鈴木シスターとは、遠藤周作さんという文学者を通じて20年以上前から知り合いでした。直接お会いするようになったのは最近ですが。
結核を始めとして多くの重病を乗り越え、医療者の辛さも患者さんの辛さも知り抜いた遠藤さんは、昭和56年頃から『心あたたかな医療をつくる』キャンペーンを始めていました。私はその運動に賛同し、お会いすることができて、それ以後教えを乞う(押しかけ?)弟子を自認していました。「自分の最期はこうしてほしい」と遠藤さんは作品でも講演でも表明していました。
確か、人工呼吸器などをつけることなく、余計な延命処置はいらない。痛みや苦しみを緩和し、安らかに看取ってほしい、ということでした。エリザベス・キュブラーロスのこともいち早くご存じで、よく勉強されていました。しかし、大学病院での最期は、「おやじの最期は壮絶でした。」という息子さんの一言に表わせられる辛い、厳しいものでした。奥様の順子さんはその後、『夫の宿題』という本を出してその時のことを詳しく伝えています。昨夜の講師の鈴木シスターは、周作先生の最期の日々に同席できたおひとりでもあり、看取りのお話も伺えました。「俺の話もたまにはしてくれよ!」とお茶目に笑う周作先生の顔をふたりで思い浮かべ、久し振りにお会いできたような気持ちになりました。
あれほどの影響力があり、たくさんの場で発言してきた大文学者の最期も、誰も予想できない形となりました。その苦しみを通じて、私たちに大きないのちのメッセージを先生は下さったのだと思っています。
存じ上げている渡辺和子シスターは、幼い頃、2.26事件で政府高官だった父親が、1m前で惨殺されるのを目撃しました。誠実な生き方をしてきた尊敬する父のそんな死に方を見て、”人生の不条理“を感じたと著作にあります。それがシスターを神に近づけたのでしょう。本当に人生は不条理の連続です。だからこそ、「ありがとう、さようなら。」と言える最期をむかえることのできた患者さんに、心から「良かった。お幸せでしたね。」と私は申し上げたいのです。
ところで、「エネルギッシュによく活動しますね。おまけに子供も3人お育てになって・・・。」などと褒められる時があります。とんでもない。家庭運営は夫の大きな協力あってのことですし、「子どもたちはこの親の元でよく育ってくれた」と考える毎日で、色々と子育てに協力してくれた方々に感謝するしかありません。そんな私もがっくりとエネルギーを消耗する時ももちろんあります。
先日は大きな仕事がとても重なる日がありました。エッセーに書きましたので、その一部をやや長くなりますがここで紹介しますね。


~重なる日~
在宅ホスピスケアの啓蒙と実践を始めて約20年。がんの痛み、特にトータルペインの緩和などの私のホスピスケアの実践力もついたのか、いや、それは自信過剰かもしれません。しっかりと自分の人生を歩む覚悟の患者さんが増えたのでしょう。
全身にがんが転移しているのに、ぎりぎりまで元気に明るく私の外来に通って来る方がこの頃多いのです。病気はあるけれど、病人にはなっていない感じがすごいなぁ、といつも尊敬します。
私はプロフェッショナルとして、安定期でも冷静に患者さんの病気の進行を観察して、大きな突発的なことが起きないように見守っています。しかし、先日は半日の間に、3人が具合悪くなったのです。
ターミナル期(いのちの終末期)というか、危篤に近くなりそうだったので、各々の事情や希望を考えて対応する必要が生じたのでした。
ふたりへの対応が終了したのが夜中過ぎ。さて、ひと休みしようと思い、眠りにつくと、すぐに枕元の携帯が鳴りました。そのふたりの担当とは別の訪問看護ステーションの看護師からでした。私の在宅ホスピスケアは、私ひとりでは成り立ちません。
私の仕事を理解して、実力もあり、共に24時間体制で働いてくれる看護師の集団―訪問看護ステーションが必要です。私の住む各地域にそんなステーションが少しずつ増えてきました。その電話では、その看護師が担当の83歳の患者さんの呼吸がおかしいと言うのです。昨日の往診の時はいつもと変わりなく、小康状態でにこにこと話をしていましたから安心していました。この患者さんは、前立腺がんの全身転移でした。
「先生、すぐ来て下さい。」
「分かりました。」
夜中の緊急コールにはタクシーで駆けつけることにしているのです。まだ寒くはないけれど、星空の下でタクシーを待ち、乗り込みました。午前2時をすぎていました。さすがにハードな一日で、座席に身を沈めると、心臓が痛いような気持ちがしました。24時間の責任の重さと、体力的な消耗感に辛くなって「神様、これ以上私には担いきれません。許して下さい。」
などと祈ってしまう弱い自分を自覚した瞬間、タクシーの運転手さんが声を掛けてきたのです。
「内藤先生ですよね?夜中にお疲れ様です。10年前に、先生の外来へがん患者さんを何度も送りました。60歳位の患者さんでした。がんが進行して重そうでしたが、明るくて、元気な女性でしたよ。言ってました。
『内藤先生がいてくれるから、私は安心して死ぬ日までしっかりと生きていける。』
って。とても感謝していましたよ。」
その患者さんの顔がすぐに浮かんできました。小田さんでした。(仮名)弱音を吐きそうになる私に、「先生、ファイト!」と応援しにきてくれたかのように感じたのでした。83歳の患者さんはその夜静かに息を引き取りました。もうひとりの重症の患者さんも翌朝亡くなり、重なる日となりました。
疲れの中で、小田さんのことが色々と思い出されました。小田さん(65歳)は、家と夫を支えてきた働き者の女性でした。口の中にできたがんを自分で見つけたのでした。初めの頃の入院で、同じ病気の重症の患者さんの様子をよく見ていました。
小田さんは冷静な女性でした。「隣のベッドの人は、あごの骨をほとんど全部手術で取ってしまっていました。食事もすり鉢でご飯を擦って、小さな耳かきのようなスプーンで少しずつ喉の奥に運んでいました。彼女の病気と闘う強さを私は尊敬しました。私は初めての手術で、少しだけ骨を削ることで済みましたが、もし病気が進行して、あの患者さんのような大きな手術を受けることを勧められたら断ろうと思っています。苦しみを取ってもらって、なるべく今の状況で過ごせたら幸せなんです。ただ、夫と娘を説得するのがちょっと大変かもしれません。ほんの僅かでも治療の可能性があるのなら、挑戦してほしいと家族は思っています。
でもね、自分の人生だから、自分で決めたい。もしいのちに限りがあるのなら、大きな手術とその後のああいう苦しさは、私は嫌なんです。内藤先生とも知り合えたし、最期にお世話になるホスピスにも紹介して頂けたから、もう大安心なの。これで幸せ。」
そう言って、心配するご主人や娘さんに笑顔を見せました。
医療が変化し、医者も以前よりよく説明してくれるようになりました。
「病気が進んだら、あごの骨などをもっと拡大して取る手術をすれば、しばらく何とかなりますよ。」そう説明を受ければ、患者さんや家族は「よろしくお願いします。」と受け入れてしまう心境になりやすいと思います。
しかし、骨を取ってしまってからのことは、実際は想像できないのです。日々の食事のこと、家での過ごし方、外出の時の工夫など。小田さんは、その様子を実際の体験中の人を見て学び、自分のひとつの結論に達したのでした。日頃、医療現場では医療的な説明の後、その結果と現実を伝えることはあまりされていないように思います。そこまでインフォームド・コンセント(説明と同意)は進んでいないのかもしれません。
皆さんが重病になり、「24時間の点滴をしますか?」と聞かれたらどうしますか?酸素吸入は?人工呼吸器は付けますか?食べれなくなったら胃ろうという、胃に穴を開け管を入れて流動物を定期的に流し入れる栄養補給法を受け入れますか?それぞれプラスの点はたくさん説明されると思いますが、いざ、それを始めたらどうなるのかは、未体験ですからよく分からないのではないでしょうか?それを体験している人たちの様子を実際に見させて頂ければ一番理解できると思います。
何がプラスで何がマイナスなのか。これらはいのちの長さをもたせる重大な選択なので、一度始めると中止することは難しくなります。
小田さんは、ご主人と一緒に外来で私と話をして下さり、それが私の2冊目の本、『ホスピス 最期の輝き』(オフィス エム刊)に載っています。11年前のことです。その一部をここに載せます。
小田さんはいつも明るく、おしゃれで素敵でした。
「内藤先生、末期になって希望するのは、きっと最新医療ではなく、人の温もりだと思うんです。どんな時も傍にいて、優しくしてもらいたいのです。もちろん家族が一番だとは思いますが、今の時代は色々な事情でできない家族も多いですね。私のうちは、娘は小さな子供をかかえているし、夫も激務だから、その時がきたら私は自分自身でホスピスと決めたんです。」
こうして彼女はホスピスの存在を知ったから、その道を選ぶことができたのです。知るということは大きな力です。
ところで若い頃の私はかなり熱かったのです。上司の言いなりになり、患者さんのためになることを自分の頭で考えない後輩医師をみると、すぐにカッカと頭にきました。
「個として自分の頭で考えてみてよ。魂を磨いてよ。保身とか出世も大切かもしれないけれど、患者はあなた方を頼りにすがってきているのよ。もっと真剣に相手の生命を考えて下さい。患者さんは浮かばれないでしょう、こんな扱いじゃあ!」
と怒鳴って、人知れず何度も机をドンドン叩いたこともあります。
『浮かばれない』という言葉を、勉強不足を承知で敢えて言わせて頂くなら、『成仏できない』ということでもあると思うのです。尊敬する宗教家の古川泰龍師もおっしゃっているように、限りある生命だと一旦諦め絶望することにより、私たちの一瞬の生に無限が宿ると悟れるのではいかと思ったりします。
もし、偽物の告知や中途半端の心ない扱いを受けて、宙ぶらりんで自分の生命のゆく末を不安と希望のシーソーゲームで費やしてしまうとしたら、その人は最期に至って、「こんなはずではない!」という絶叫の中で、たくさんの思いを残して旅立たねばなりません。医療者の関わり方は本当に大切です。小田さんは最期の一ヶ月を自分の選んだホスピスで過ごしました。
お見舞いに行くと、最期まで私の知っている温かな笑顔がありました。
末期患者さんにとって残された時間はとても貴い。患者さんの状態を総合的に把握し、適切な助言を与えられる立場の医師が告知できず、相手のためにより良い支援をできないということは、哀しいことだと改めて思います。真実があまりにも残酷な時、それを告げないことが相手に対する思いやりだと私たちは教えられ信じてきたけれど、果たしてそうだろうか?と当時の私は悩みました。
少なくともその真実はわたしたちのものではなく、患者本人のものである、ということから出発すべきではないだろうか、と。私の尊敬するホスピスケアのトップでもあるイギリス人のトワイクロス博士がこうおっしゃっています。
〈真実は二つの顔を持っている。厳しさと優しさだ。そして患者はいつでも優しい真実の方を好む〉
どうやって優しい真実を告げていくのか?真の優しさとはなんだろう?
医学教育の現場で私たちはコミュニケーションの方法も、また告知についての真剣な取り組みも学ぶことは充分ではありませんでした。
小田さんとの出会いから10年がたちました。10年前少なかった告知は、今や大原則になりました。10年でこんなに世の中は動くのですね。しかし、患者さんを支えるための告知になっているのか、優しい真実を伝えられているのか・・・と、疑問に感じる時も多いです。特に、余命「後1ヶ月」「後3ヶ月」などとストレートに伝えることは、生きる希望を奪い、患者さんを追い詰めることになると私は思います。
人生は気力によってかなり違ってきますから―。その人の残された寿命など、たとえ医師でも、正確に分からないのではないでしょうか?
私の外来では、紹介状に書いてある余命の予測より、ずっと長く小康状態でお過ごしになる方が増えています。『今を生きるという希望』ホスピスケアはそれを支える仕事であることを自覚します。「希望」について次回語れたらうれしいです。
つい、長くなってしまいました。
次のお便りの時は初冬ですね。
お体に気をつけてお過ごしください。
内藤いづみ