往復書簡(米沢慧様)Vol.2 復
岐阜の山々からの贈り物、大好物の“栗きんとん”を口にすると、「今年も秋がやってきた」という感覚が体中を廻ります。暑い夏が終わり、急に涼しくなって体調を崩す人が私の周りでは多いです。米沢さんは大丈夫ですか?
前回のお便りでは、私の数々の質問に丁寧に答えて下さってありがとうございました。
今回は、久し振りの再会が嬉しくて、つい走ってしまいました。(笑)アメリカンインディアンのことわざではないけれど、「必要な時に、必要な人と会える」そんな思いがしています。お身内の話もとても胸に響きました。
10年前、岡村昭彦という博覧強記の人物の存在を教えて下さったのは米沢さんでした。
彼の撮ったヴェトナム戦争の報道写真の中で、水責めの拷問を受けた後、殺される直前の若者の射るような目を、私は今も忘れることができません。
こんな胸に迫る写真が撮れるカメラマンとは一体どんな性格の人なのか?
その後「いのち」の核心に迫り、バイオエシクス(生命倫理)とホスピスについて、全国を語り歩く岡村昭彦という人を当時の私は、全く掴みきれませんでした。
穏やかに、ひとつひとつの言葉を大切に受け取る静かな米沢さんが、彼の理解者のひとりとして傍にいたことを想像すると、不思議な感じがします。
彼亡き後も、米沢さんはその指し示すいのちの方向をずっと学びながら歩んできたのですね。
誰かに雇われて、固定的な安定した収入を望めば自由時間は少ない。
米沢さんは“岡村”という大テーマから手を離さず、執筆自由業という、やや不安定な立場で仕事をしながら(失礼!)、だからこそ得られた自分の時間で、たっぷりと身近ないのちにも真正面から関わってきたのですね。自慢ではないけれど、私もそうです。
医者として、病院に勤めていれば、もっと安定したそれなりの収入もあり、普通の?
開業医のスタイルならばもっと体も楽かもしれませんが、自分の好きな学びの道を歩める今を、私は幸せだな、と思っています。
そうでした。患者さん方から教わった『幸せの3ヶ条』をお教えますね。
① 人の幸せと比べない。
誰も他人の幸せの中身など分からない。自分の幸せを噛みしめること。
② 人のせいにしない。
人のせいにしているかぎり、自分の本当の姿は見えてこない。たくさんの宝物を持っているのに。
③ 欲張らない。
欲望に終わりはない。欲を掻くほど心も魂も渇いてくる。与えられているものに感謝しよう。
今回の書簡は、エリザベス・キュブラーロスの残した仕事を振り返る、ということが主なテーマでしたが、米沢さんから岡村のメッセージを再確認させられ、どうもロスに行き着くには時間が掛りそうだと思いました。
・・・というのも、岡村昭彦の定本、『ホスピスへの遠い道』(春秋社)を久し振りに読み返し始めたら、しばらくここから離れられそうもないからです。
岡村のメッセージを伝えることは、米沢さんの人生の大仕事ではありますが、私もまた「ホスピスへの遠い道」を辿るひとりの巡礼者であるような感覚を持ちました。
厚い本でなかなか取っ付きにくいので、ここで少し紹介させて下さい。
岡村は医学校へ入りながらそこを飛び出し、ジャーナリストとして、人間が追い求めるいのちの前線と混乱と悲しい業と愚かさと、同時に高貴さを世界中見て歩き、写真と文で伝えていきましたね。
授業(ゼミ)のその質の高さには驚かされます。資料を読み説く力にも脱帽します。
今時こんな教育者がいるでしょうか?
叔父の病理学者・緒方知三郎の影響が大きいとあります。
『医学校の一年生になって私がまず最初に知ったことは、人間の生命力は素晴らしいもので、その生命力があればこそ医術が可能なのだ、ということだ。
つまり、医者のやることなど、生命力に比べれば、チッポケなものなのだ、ということを学んだのだった。
生命そのものについての関心をかき立てられればかき立てられるほど、私の心は医学から離れ、逆に病気よりも人間の健康な部分にひきつけられていった。
まもなく、医学専門学校などは、人間修繕工の養成所としか私には思えなくなった。
白衣を着て、病気についてばかり語っている人間たちこそが「病人なのだ」とすら思えてきた。
人間とは何なのか?
人間はどこから来てどこへ行くのか?
私はそれを追求したかった。
18歳のときだ。叔父の緒方知三郎は「まず医者になってから、思うとおりのことをすればよい!」と熱心に引き止めてくれたが、私は医学校をやめてしまった。
「だから、看護婦に一般教養を教えているのさ。人間の健康な部分をまず知ることなしに(病)を語るのは誤りだというのが、医学校に入学して以来の私の信念です。
テクノロジーが進歩するにつれて、生命そのものが持っている巨大な回復力が、忘れられ勝ちになってしまったのである。
医療技術によって生命がコントロールできると錯覚する医者や看護婦も多くなった。どんなに重症の患者でも、健康な部分が残されていればこそ回復する希望が持て、そのために入院するのだということを。」(『ホスピスの遠い道』より一部抜粋)
病気を通してしか人間に向かい合わない医学の世界への違和感を、私も岡村と同じように感じていました。
私もまた、医学部でのいのちの学びに満足が得られず、25年前の病院の中での患者と看護師と医師の位置関係や、患者の権利の乏しさにも居心地の悪さを常に感じていました。
私は岡村のようにジャーナリストとして、医療の世界から飛び出すことはせずに、こうして、遅いスピードではありますが、自分の納得する“在宅ホスピスへの遠い道”を歩んでいます。
在宅ケアとは、白衣を脱いで、患者の前にひとりの人間として向かい合うチャレンジなのです。
ロスもソンダースもそれぞれの感性で、ひとりの人間として、平等な位置から患者の苦しみに手を差し伸べた人たちでした。
岡村は、ホスピスのルーツを探すアイルランドの旅で、ホスピスの発展に貢献していくシシリー・ソンダース女医(イングランド)とアイルランドのホスピスとの繋がりを見出します。
ソンダースは、ロンドンのセント・クリストファーホスピスを創設し、世界中のがん患者を痛みから解放する中心人物として有名です。
私もイギリス滞在中、2度、ソンダースから特別授業を受けました。
静かで大きな存在感がありました。
米沢さんがおっしゃるように、ソンダースとキュブラーロスも、同じ視点でいのちを支える人として深い絆で結ばれていました。
岡村、ソンダース、キュブラーロス、いのちに確かな厚みを与える人々・・・
この偉大な3人に、私たちは肉薄していけるのでしょうか?
更に、「ホスピスの遠く、長い道」になりそうな予感も。(笑)
(私のホームページです。よろしければこれから長期戦でお願いします。)
「死んだ方がまし。何とかしてくれ。」
と末期がん患者に依頼されたことはないか?
という質問でしたね。
数少ないですが、似たようなことは経験しました。
じわじわと口腔がんが進行し、飲むこと、食べること、息をすること、しゃべることが障害され、転移により失明し、聴力を失い、手足も麻痺するだろう、と告知された女性患者さんがいました。
「暗闇で生きること」を想像し、その方は絶望の淵に落ちました。
私たちは「もう生きていたくない。早く死にたい。」
という彼女の苦しみを聞き、
「私でも、その苦しみに耐えられるか分からない。」
と白状することしかできませんでした。
その時、彼女を救ったのは、「どんな姿でもいい、生きていてほしい。」と願った家族の声でした。
その後、ロスの言う、絶望のどん底(鬱)から彼女は静かに浮かび上がってきたのでした。
そして、彼女はみごとに人生を生ききったのです。
私は最近、“希望”について考えさせられます。
パンドラの箱の最後に出てきたという“希望”。死にゆく人たちに向かい合い、私はこの“希望”の秘密を少し教えてもらった気がしています。
これは次回にお話できたら・・・と思っています。
セデーション(鎮静)については・・・しばらくお待ち下さい。
資料を揃えているところです。
ところで、私たちの書簡はどうしてもシリアスに難しくなりがちです。
ユーモアを含んだ米沢さん琉の『幸せの3ヶ条』も教えて下さい。
また、患者の権利についても少しご意見頂けますか?
深まる秋を楽しみつつ・・・甲府盆地の友より~