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手をつないで生ききって

北海道新聞5月28日より
肺がんになった40代の女性がいました。いろんな病院で検査し、抗がん剤や放射線治療を受けましたが、治りませんでした。ある時、彼女は入院して治療するのはもうやめようと決心しました。

3人いる息子のうち一番下の子が中学生で、「病院にいる限り息子に会えない。だから家に帰りたい」と思ったのです。そして、1人で私のところに来ました。「先生、私は1回でも多く息子に『行ってらっしゃい』『お帰りなさい』を言いたいんです」と。

がんという病気は(亡くなる前の)1、2週間、動きがだんだん重くなってベッドにいる状態が続きます。そして1~2日間、昏睡状態になって、亡くなるというプロセスを経ます。
この女性もだんだん寝付く時間が長くなり、時々、深い昏睡状態にもなりました。友達と家族が順番に彼女に付き添いました。
ある時、電話したらかわいい声の息子が出ました。
「きょうは試験が終わったのでお母さんの横にいます」
「お母さんの様子は?」
「寝てます」
「揺すってみて。起きた?」
「起きません」
「30秒に何回呼吸してる?」
「8回です」。
そんなやりとりがありました。
1、2日後、私たちが往診して女性のところにいると、彼女にとって最愛の息子が学校から帰ってきました。ドアを開けて「お母さん、ただいま」と大きな声で言うと、昏睡状態だったはずの女性が、いつものお母さんの声で「お帰りなさい」と言ったんです。

140528_02ホスピスケアというのは、(医師と患者、家族が)ずっとつながるケア。ずっとあなたのことを、家族のことを忘れませんよというケアだと思います。数字や臓器や治療だけの話ではなく、自分(医療従事者)も人間であり、相手(患者)も人間であるという哲学を学んだ時に、そういうケアはできると思います。

治療ができない状態だということを受け入れた時、みなさんなら一番何をしたいか考えてみてください。
ごはんを作ることや家旅と笑顔であいさつすることなど、何げないことが奇跡になるということを、患者さんたちは教えてくれます。

帯広出身のクリスチャンの女性は乳がんが転移し、手の施しようがない状態でした。天国に行くとき、つまりお棺の中に入る時の衣装を自分で決めたいと言い、手が利く間は自分で縫っていました。縫えなくなってからは、友達が作りました。衣装が届いた日、女性は着てみたいと言いました。娘は「やめて!」と止めましたが、女性は「本番じゃ自分で見れないでしょ」と言ったそうです。その途端、場の空気が変わりました。そういう冗談は、病院では周りが凍り付いてしまう。でも、家ではみんなで笑い合えたりするんです。

映画評論家の故淀川長治さんは、すごく前向きな人だったそうです。朝起きたら布団の中で背伸びをして、「きょうもいい日だ。前向きに行く。一日、にこにこしていく」と大きな声で言っていたそうです。

84歳で食道がんが見つかつた男性の患者さんがいました。もう開腹できないということで、在宅ケアが始まりました。食道がんは飲み物も食べ物も入りづらくなり、とてもつらいんです。
でも、男性は
「先生、ただ一つお願いがある。毎日、焼酎を一口飲んでいいか」
と言いました。そして(焼酎を飲むと) 
「おいしい。幸せだ。きょう一日生きていて良かった」と言っていました。
亡くなった後、男性の枕の下から、新聞の折り込みチラシの裏に書かれた日記が出てきました。亡くなる2日前に、震える字で
「きょうもいい日だ。前向きに行く」
と書いてあったそうです。山梨の田舎の片隅で生きたおじいちゃんが、毎日一口の焼酎を飲みながら、「きょうもいい日だ」と唱えていたんです。

今は、次々と新しい治療法や薬ができるので、(治療が)ここまででいいと線を引くことが難しい。でも、冷静に人生を考えた時に
「このへんでつらい治療はいいよ」
と言ってくれる命の伴走者、仲間をつくってもらいたいと思います。そうすれば、私たちの人生の最終章はそんなにつらいものではなくなると思います。

94歳のおばあちゃんは重度の認知症で、末期の大腸がんでした。4人の子供たちが代わる代わるおばあちゃんの看病をしました。人が死んでいくことに付き合うことが少なくなった今の日本では、人の死に向かい合うのは怖いことです。愛する人であれば愛する人で
あるほど、1秒でも長く生きていてもらいたい。おばあちゃんが危篤状態になった時もそうでした。

私が往診に行くと、救急車を呼ぶかどうかで子供たちがけんかをしていました。1人は「放っておくと死んでしまう。病院で延命処置をすべきだ」。
他の子供は
「お母さんは十分生きて、今まさにみとりの時だ」
と主張していました。
私は救急車を呼ぼうとしている息子に言いました。
「お母さんは天国に旅立つ寸前なんです。このまま自然にみんなで見送ってあげれば、安らかに旅立てる。もし救急車を呼べば、2、3日は命が長引くかもしれないけど、点滴や酸素吸入やいろんな処置をすることになる。手足が紫色になって、血圧も下がってきたお母さんがそれを望むでしょうか」。
最終的に息子は「このままみます」と言い、おばあちゃんは家で息を引き取ることができました。

今、手と手をつなぐ代わりに、若い子たちはスマホで脳がつながっています。
実態がない。でも、本当に人を助けてくれるのは、そばにいる手と手をつなげる人です。友達やケアマネジャーなど自分が信用できる人を見つけたら、しっかり手と手をつないで生ききってほしい。そう願い、今日は生き生きと生ききった私の大切な患者さんたちを紹介しました。
最期の時まで、この地域で生き生きと生きていきましょう。

講演を聴いて「納得した最期を迎えるために」
2年前、父が亡くなった。末期の肝がんと宣告されてから、わずか1ヵ月半だった。「家で死にたい」と言うので恥ずかしながら、ほとんど知らなかった「在宅ホスピス」の本を読みあさり、在宅ホスピス医に訪問してもらうことにした。
死にゆく父に、いかに悔いのないよう旅立ってもらうか、家族みんなで一生懸命考えた。そして、ついに訪れたその日。
悲しみよりむしろホッとしたことを覚えている。
「最期を精いっぱいみとることができた」と思えたのだろう。
内藤さんは講演で、「命の最期に『さようなら、ありがとう』と言えずに亡くなる人たちもいる」と話した。もちろん、在宅ホスピスがすべてではない。在宅であろうとなかろうと、いかに納得して最期を迎えることができるか。それが内藤さんの言う「生ききる」ということなのだろう。それは見送る側にとっても、とても大切なことだと思った。
(山本武史さん)