井上ウィマラ・内藤いづみ往復書簡 vol.6(最終回)
井上ウィマラさんとの往復書簡、今回は井上ウィマラ様からの書簡です。
ヴィパッサナー瞑想について
往復書簡の最後ですね。ヴィパッサナー瞑想についてご質問いただきました。ヴィパッサナーとは、ものごとをありのままに洞察する観察智という意味です。ブッダの教えを伝えるパーリ語では、「パッサナー」が「見る」という意味の語根、「ヴィ」が「分析的に・洞察的に」という意味の接頭辞です。ヴィパッサナーは漢訳経典では「観」と訳されます。
ブッダは説法の中で、ものごとをありのままに見ること(や知ること)の重要性を繰り返し説きました。ありのままに見ることは、漢訳経典では「如実智見」と訳され、今でも時々お寺の額に書かれているのを目にすることがあります。
ヴィパッサナーは、この如実智見を得るための瞑想法だと思っていただければよいと思います。
ありのままに見る、ありのままを知るということは、簡単そうでいて、なかなか難しいものです。一番よく分かっているように思う自分自身のことについても、実は、どうしてそうなのかわからないことがたくさんあります。
先の書簡で内藤先生もおっしゃっておられましたが、家庭生活というものは、温かな心のよりどころになってくれるものでありながらも、同時に、生身の人間同士が存在全体で身近にぶつかり合う難しいところがあります。
夫婦関係や親子関係の中で、「どうしていつもこうなっちゃうの?」と思うような場面によく出くわします。そんな時、自分自身の中で起こっていること、相手の中で起こっていること、家族という場や人間関係の中で起こっていることをありのままに見つめることがヴィパッサナー瞑想の実践になります。
ヴィパッサナー瞑想では、トレーニングの基本として、呼吸を見つめます。腹式呼吸や丹田式呼吸法などでは呼吸をコントロールしますが、ヴィパッサナー瞑想では、そのときに生じている呼吸を、そのままありのままに見つめ、身体ごと感じ取ります。
最初は、ひとり静かに坐っているときの自分の呼吸をありのままに見つめます。
吸う息と吐く息ではどちらが暖かいでしょう? どちらが湿度が高く感じるでしょう?
こうした微細な身体感覚に注意を向けながら、一つひとつの呼吸の違いに気づいてゆきます。
一回一回の呼吸の違いというものは、自分の呼吸だけを見ているときには感じ取れない人が少なくありません。そういう時は、誰かのお腹に触れさせてもらって、相手の呼吸を直接的に感じる練習をするのが役に立ちます。
こうすると、触れてもらう側も、手の温かさを実感したり、安心を感じることが多いものです。
手のひらの感触を通して感じる呼吸に連動したお腹の動きは非常にダイナミックで、いのちの力の大きさを実感する人も少なくありません。
直接手を触れなくても、横になった相手のお腹や胸の辺りの動きを観察しながら、相手が息を吐くのにあわせて「ふ~」と声を出しながら相手の呼吸に寄り添うようにしてみると、呼吸という現象には、実にさまざまなリズムや長さや深さなどの変化があるものだということがよく分かります。
吸う息と吐く息の間に無呼吸状態の間があることにも気がつきます。
他人の呼吸に触れたり、他人の呼吸を観察することによって、自分で自分の呼吸を見ていたときには気がつかなかった呼吸現象の詳細な側面に気づいてゆくということはとても興味深いことです。
他者をよく知ることによって、自分自身の気づかなかったことに気づいてゆくということがあるのです。こうして、ヴィパッサナー瞑想では、主観的に知ることと客観的に知ることとが相補い合ってゆきます。
こうした呼吸への自覚を育んでゆくと、家族をはじめとするさまざまな人間関係の現場でも、ふとそのときの呼吸のあり方に意識が行くことがあります。
気づいてみると、息が弾んでいたり、息を殺していたり、息が合っていたりするのです。
こうして、まずは一息つくことを学びます。人生の修羅場で一息つくことを学ぶと、次には、その場でのお互いの息遣いにも意識が開けてゆきます。
私たちは、言葉をしゃべったり、相手の名を呼んだりするとき、息を吐いています。吐く息を使って声を出すのです。ためしに、息を吸いながら自分の名前を呼んでみてください。
言えないですよね。
あらためて、どのように息を使いながら声を出すのかを意識しながら自分の名を呼んでみてください。
どんな風に呼ばれると嬉しいですか? どんな風に呼ばれると嫌な感じがしますか? それぞれの息遣いを感じ取ります。
人生のさまざまな場面で一息つくことを学び、そのとき飛び交っている言葉の息遣いを感じ取れるようになってくると、私たちはヴィパッサナー瞑想を日常に応用してゆくための足場を得るようになります。
こうして見えてくる新たな日常の風景の中で、それまではタテマエの後ろに隠れていたいろいろなホンネに気づくようになります。
ことのとき、ヴィパッサナー瞑想の一番重要な点は、どんなことに対しても善悪を裁かずに、ただありのままに見つめることです。
その時、私たちは無意識的な善悪へのこだわりを手放して、そこに起こっている現象をありのままに見つめることができるようになります。
どんなことも、すべてが変化して、やがては消えてゆくものであることを学びます。
悲しみや寂しさ、不安、恐怖、怒りといった感情や、それらに彩られたさまざまな思考の誕生と成長と変化と死滅を見守ることができるようになることが、ヴィパッサナー瞑想の成熟をもたらします。
こうした瞑想の成長を支えてくれるのは、さまざまな対象を繰り返しありのままに見守る集中力によって、それまでは曇らされていたいのちの喜びが輝きだして力を与えてくれるからです。
この瞑想の喜びは、どちらが優れているとか劣っているとかいう比較の物語を超えて、私たちの体に生きる力を吹き込んでくれるものです。
こうして、自他をありのままに見守れるところにまで成長したヴィパッサナー瞑想は、注意を向けるというその行為自体によって、私たちをそれまでの問題から自然に解放してくれます。
不思議なことなのですが、解決しようと思わなくても、ただありのままに見つめているだけで、いのちがその場にふさわしい流れを導き出してくれるという感触です。
それは、問題を解決するというだけではなく、それを問題としていた自分を解決すること、知らず知らずに問題を作り出していた自分に気づくことで、問題それ自体が消えてゆくことをも含むダイナミックな変容です。
こうしたヴィパッサナー瞑想の視点を持ってスピリチュアルケアの現場にいると、それが看取りの場面であれ子育ての場面であれ、スピリチュアルな問題のおよそ7~8割くらいは、家族が無意識的に共有しているテーマに関わることなのではないかと思えてきます。
私たちは両親という人間関係の間に生を受け、家族という場で無意識的な習慣が織り成す身振りや息遣いの中で「私」という思いを作り上げて、人生を生きるようになります。ヴィパッサナー瞑想が、まずは呼吸のありように純粋な注意を向けることからトレーニングを始めるのは、こうした息によって生かされているいのちの流れの中に浮かんでくるさまざまな生命現象の模様の中に霊的な息吹を感じ取ることができるようになってゆくからなのではないかと思います。
スピリチュアルという言葉の語源が、ラテン語で息することを意味するスピーラーレだというのもなんとなく頷けますね。それは霊能力がなければ分からない不思議なものではなく、いつもは当たり前すぎて無意識になっている呼吸に注意を向けるというトレーニングによって、誰にでも、それぞれの必要に応じて学んでゆけるものなのです。そうして、自分が生かされているという現実に気づくと、不思議と感謝や思いやりの念が湧き上がってきます。ヴィパッサナー瞑想は、こうして私たちのスピリチュアルな可能性を開いてくれるものでもあるのだと実感しています。