韮崎高校3年4組 命の新聞記事
昨年の5月31、韮崎高校の生徒さん2名と担任の山口先生が学園祭のクラス新聞づくりのためにクリニックを訪れました。その取材をまとめた記事「命の最期にも希望はある~直撃 在宅ホスピス医 内藤いづみ医師~」をトップ記事に載せた新聞が優勝作品に選ばれた、との報告を担任の先生から頂きました。
命の最期にも希望はある~直撃 在宅ホスピス医 内藤いづみ医師~
命が終わることを皆さんはどのように感じているだろうか。多くの人は、怖い・辛い・など、暗いものを想像するだろう。しかし、命が大切な人に看取られ、残された人が命を引き継ぐことができたら、「死」は決して絶望ではないといえる。甲府市で在宅ホスピス医として活躍する内藤いづみ医師は「死ぬということはマユからチョウになることなのだ。」と語る。
3年4組の人たちに「死のイメージ」を聞くと、怖い・終わり・寂しい・辛い・実感のないものなどという、暗いイメージがほとんどを占めていた。
しかし、甲府市で在宅ホスピス医として活躍する内藤いづみ医師が、「死の最期にも希望がある。」と話しているのを知った。本当に「死」は恐怖ではなく、希望なのだろうか。
私達は5月31日にふじ内科クリニックを訪れ、直接お話を伺った。内藤医師は、「死は人生が凝縮されたもの。大切な家族に囲まれ、住み慣れた我が家で、普通の生活をしながら最期を迎えることができたら、命は次に伝えることができる。」と語る。つい50年前までは、死を自宅で家族が立ち会って迎えていた。人の死も出産も家で行った。今それらは、医療者に囲まれており日常から遠ざけられている。
内藤医師は、たくさんの患者を看取る中で「患者から、『命が終わるときは恐怖だけではない。命を次に伝えていくという希望があるから、私たちは旅立っていけるのだ。』という真実のメッセージを受け取ることがある」という。だからこそ、「命のリアリティを医師が見ているだけではいけない」と考えているのだ。
最後に内藤医師は、私たちに伝えてくれた。「命の現実は厳しいし、簡単なことではないが、私は命というものをこう考える。死ぬということはこの人生を卒業していくことで、それまでに何のために生まれてきたのか答えを探す。いわば、命の宿題のようなもの。早く宿題が終わる人もいればゆっくりと終わらせる人もいる。」
このインタビューを終え、私たちは、命の終わりに関する三世代アンケートを行うことにした。まず三年四組の私たち自身が~2007年での、父母に1970~80年代での、祖父母に1940~50年代での死の状況を聞き、本当に現代の死は日常から遠ざかっているのか、私たちはどのように死に向き合うべきか探ることにした。(※グラフは略)
あなたが立ち会った死について、①「死」に立ち会った場所はどこか?②一緒に立ち会った人は誰か?
この結果、祖父母の時代では死を家で迎えていた場合が50%以上を占めていたのに対し、父母や私たちの時代では20%以下に減っていることが分かった。そして、昔も今も家族が死に立ち会うことが多いということが分かった。ただ現代の死では家族に看取られることはできてもそれは病院であり、医療機器に囲まれて瞬間的に命を看取るということが多い。内藤医師が言う、死までをどう過ごすかというプロセスを大事にする理想とはかけ離れてしまう。
自分は、どのように死を迎えたいか?
この質問にはどの世代も住み慣れた家で大切な人に囲まれてという人が多い。理由は後の人に感謝の気持ちを伝えたいからというものが多数だった。
「死はうしろからやってくる」突然やってきて、どんな形か分からない。核家族化が進む現代、実際には、看取ることが難しい場合も多い。また、内藤医師のようなホスピス医がたくさんいるわけではない。しかし、それぞれの状況に応じ、地域や家族が助け合いながら医療施設に任せきりにせず、一人一人の死を大切に向き合うことができたら、命はつなげていくことができるのではないか。