痛いよね我慢しないで
2008年3月17日 朝日新聞「ニッポン人・脈・記 みんな、その日まで⑦」に掲載された記事「痛いよね我慢しないで」を抜粋にてご紹介します。
がんは痛い。患者をおののかせる。「でも、きちんと薬を使えば痛みの9割はとれるんです」と元埼玉県立がんセンター総長、武田文和(75)。痛みをとりのぞく緩和ケアの第一人者である。
武田は5歳のとき直腸がんの祖父を見舞った。祖父はたらいにお湯をため、腰までつかってウンウンうなっていた。激痛に耐えていたのだ。血のにじんだお湯の色が幼心に怖かった。
外科医になって3年目、胃がんの男性が腰と背中の骨が擦れ合うように痛いと訴えてきた。武田は先輩に「モルヒネを使いたい」と相談する。モルヒネはアヘンの成分から作られ、鎮痛作用が強い。でも使うことは許されなかった。
「『中毒者をつくる』『がんの痛みはしかたない』といわれてそれが当時の常識でした」
その男性は痛みにもだえながら亡くなった。こんなことでいいのか?緩和ケアにとりくむ原点となる。世界保健機関(WHO)が80年代、がんの痛みをとりのぞく方式をつくったとき、武田は日本からただひとり加わった。
我慢しなくていいんです。もっと痛いと訴えて!
そう呼びかける本を何冊も書き、今年1月にも「がんの痛みよ、さようなら!」を出した。共著者は看護師高橋美賀子(39)、薬剤師石田有紀(37)ら。
国連は89年、モルヒネ使用量がその国の痛み緩和の水準を示すといった。だが日本の国民1人当たりの使用量はいまだに先進国の最下位にとどまる。
武田はいう。「医師の不勉強。中毒になるという偏見があり、患者の痛みへの関心もまだうすい」。もうひとつ、我慢や忍耐が国民的な美徳だったことも。「お年寄りは遠慮しがちです」
そんな武田を「師匠」と慕うのが甲府市の内科クリニック医師、内藤いづみ(51)だ。25年前、東京の大学病院の医師になったばかりのころ、23歳の女性患者ユキと出会う。卵巣がんが転移し、余命3ヶ月。なのに病名すら知らされず病室にポツンといた。
「いま何がしたい?」
「家に帰りたい。秘密の日記の始末をしたい」
内藤はユキの母親と相談し、願いをかなえる。彼女が大阪で民間療法を受けるとき酸素ボンベをもって付き添った。
ユキは「さいごまでトイレは自分で」と歩いてトイレにいった。最期の日、「お母さん、心臓がちょっと苦しい、なぜて」。さすってくれる母親の胸に、安心したようにコトンと首を落とした。
患者の痛みは体だけではない。やり残したことへの悔いや心の痛みもある。それをのぞくことも私の役目ではないだろうか?
そのころ内藤は、作家遠藤周作が「心あたたかな病院がほしい」と新聞に書いた一文を読む。ユキのことや悩みを手紙に書いて遠藤に送ったのがきっかけで、雑誌で対談した。
遠藤は娘のような年頃の内藤に「今の気持ちを忘れないで」といった。「人生経験が必要なんだ。医者と神父は人の魂に手をつっこむ仕事。そのうちわかる」
内藤は85年、英国人ピーター(52)と結婚、英国で7年暮らす。新しいホスピスの立上げにかかわり、帰国後、山梨ホスピス研究会をつくった。患者が最期の日々を自宅でおくる在宅ホスピスケアをすすめる。
はじめは理解されず「ドクター・デス」と陰口をいわれたり、疲れ果てた看護師が次々と辞めていったりした。そんなとき、地域医療のパイオニア、長野の諏訪病院名誉院長鎌田實(59)らが応援してくれた。
内藤は末期患者には携帯電話の番号を教え、夜中でも駆けつけられるように運動着で眠る。「『ありがとう』と『さよなら』がいっしょになるのが在宅ホスピスケアなんです」。いまの仕事のイメージは友人の大阪の詩人、里みちこの詩「わたし舟」だ。
岸のほとりで 佇むひとが
対岸いくのに 橋がない
わたしでよければ わたし舟
ちょいと送って いきましょか
岸に着いたら 名も告げず
ただのひとこと「おげんきで」
2008年3月17日の朝日新聞より抜粋