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在宅ホスピス 希望があるから、怖くない

共同通信で全国の地方紙に昨年末配信された特集「さよならのプリズム」より、抜粋にて記事をご紹介いたします。


 「アユが食べたいねえ」と娘に頼んだ塩焼きを食べ、深夜まで好きな池波正太郎の時代小説を読んだ。「あんた明日朝早くてえらいから、寝ようね」と娘を気遣って自室の床に。膵臓がんを患った林はなさん=当時(九一)、甲府市=の、それが最後の言葉だった。翌朝往診した内藤いづみ医師(五一)が呼び掛けても、すやすや眠り続けた。
 内藤医師は、家で過ごしたい末期患者の体や心の痛みを和らげ、家族の中でのみとりを支える「在宅ホスピス医」だ。大学病院での研修医時代、医師の巡回もない病室で、点滴につながれ捨て置かれたように亡くなる患者たちを目の当たりにした。病気は運命だから仕方がない。でも人間が最も恐れるのは、孤独の中の死ではないか-。
 二十九歳で英国人との結婚を機に英国へ。ホスピスケアを学び帰国。一九九五年、甲府市内にクリニックを開いた。
 はなさんは二〇〇五年暮れ、余命一カ月と診断され「入院は嫌」と相談に来た。
三十三歳で夫と死別、病院の調理場で働きながら娘二人を育て上げた。孫四人、ひ孫七人。同居する長女萩原俊江さん(六九)は「苦労した母だからよくしてあげたい。でも家で苦しんだらどうしよう」と不安もあったが、内藤医師は「きっと安らかにいくから大丈夫よ」と笑顔で励ました。
 鎮痛剤で痛みは抑えられ、はなさんは毎晩様子を見に集まる孫やひ孫に囲まれて、日増しに元気になるようだった。翌年二月の午後。はなさんが俊江さんにふと言った。「長い間ありがとうね。わたしは幸せだよ」。四月には美容院で髪をふじ色に染め「遺影を撮っておこうと、小首をかしげて写真に納まった。
 昏睡状態になった翌日は九月の敬老の日。俊江さんたちはベッドを囲み、手足やぼおをなでて見守った。
080131_001.JPG内藤医師は幼いひ孫たちを呼び集めた。
 「今からおばあちゃんは天国に旅立つの。耳は聞こえるから、そばで大きな声でお話してあげて」。隣の部屋で練習してきた子供たちは、戻って元気に声をそろえた。「おばあちゃん、ありがとう!」
在宅ホスピスは『ありがとう』と『さようなら』が一つになるところ。次の人たちに命をつなぐ希望があるから、死は怖くないんです」と内藤医師は話す。「病院でとことん治療する選択もあっていい。大切なのはその人らしく、豊かな時間を過ごせること」
 花のように死にたい。わたしが死んだらうんとにぎやかにして。はなさんの願い通り、通夜は家族約二十人が葬儀場に泊まった。「お祭りみたいに楽しくてね」と俊江さん。みんなのほおをぬらした涙は乾き、ひ孫たちのはしゃぐ声が表の通りまで響いていた。