井上ウィマラ・内藤いづみ往復書簡Vol.4
後悔を見守る心 井上ウィマラ(往)
新聞記事を読ませていただきました。胸が痛くなるような、やるせない出来事ですね。E.キューブラー・ロスは『死ぬ瞬間』の中で、告知に関して「問題は告げるべきか否かではなく、どのように告げるべきかである」と語っています。しかし、その彼女も余命については、「あと何ヵ月とか何年とか具体的な数字を出すのは最悪の対応で、どんなに精神的に強い患者に対しても行うべきではない」と考えています。「気配りがきき分別のある医師なら、数字を示すのではなく、時間と体力があるうちに身のまわりの整理をしておいたほうがよいと患者に勧めるだろう。そうすれば患者は言外の意味を理解し、なおかつ希望を持ち続けることができる。自分はいつでも死ぬ覚悟ができていると公言する者も含めて、患者なら誰でも希望を捨てない」と言っています。
キューブラー・ロスは多くの末期患者に直接インタビューする中で、死の受容に至るすべての段階を通して希望が存在していることを述べています。自らの死を受容したとしても、その希望は、残された命を生ききる力となるのではないかと思います。
さて、新聞記事のケースでは、医師は「余命を言えば、心を閉ざして治療を拒んだだろう。これでよかったんです」と言ったとあります。これは、この医師にとっての心情です。彼にとっても辛い体験で、自分自身を納得させ、自分を守ろうとしているかのような印象を受けます。「余命を言えば、心を閉ざして治療を拒むのではないかと思ったのです。でも、これでよかったのでしょうか? ご家族のみなさまのお気持ちはどうですか?」という問いかけができたときに、医師にとっても、家族にとっても新たな一歩が踏み出せるのではないかと思います。
このような場面では、自分自身の死への不安に向かい合った程度にしか他者の死に向かい合うことはできません。キューブラー・ロスは、「自分自身が死を否認したいと考えている医師は、患者も死を否認したがっていると思い込んでおり、話し合いをためらわない医師は、患者もこの問題を直視し認めようとしていると考える」と述べています。医療スタッフも家族たちも、自らの死への不安に向かい合いながらしか、患者の死に寄り添うことはできないのです。
葬儀の間泣きじゃくった長男は、その分、きっと悲しみはお母さんへの思いやりへとかわっていったのではないかと思います。この家族にとって、この心の傷を癒すためには、それぞれが心に抱えている思いを素直に言葉にして話し合い、聴き合う機会を持つことだと思います。後悔や罪悪感が言葉にされ、抱きとめられたあとには、必ず楽しかった思い出や共に過ごした喜びを思い出すスペースが開けてきます。
スピリチュアリティとは、そうした心の痛みを伴う後悔や罪悪感が自然に表出され、受容され、許され、新しい思いやりや生きる喜びや希望が生まれるプロセスを見守る働きなのではないかと思います。
内藤いづみ(復)
学生指導でお忙しい中、書簡ありがとうございました。私がかかわった在宅ホスピスケアの最終章では、本人も家族も私たち医療者も、力をだしつくし、大きな山登りを達成したような充実感を覚えることがあります。もちろん、永遠の別れの悲しみにふちどられたものではありますが。どんなに手をつくし、心をつくしてもみとった家族の心にはやがて後悔の芽が出てきます。「ああすれば、お母さんはもっと延命したのでは?本人は満足だったのか?」「病院の方がよかったのかもしれない」などと。そんな時、軽い生活習慣病などで私の外来患者に遺族がなってくださっていると、外来でそっとお話をうかがうこともできます。私たちは共にいのちに向かい合った仲間ですから、後悔や罪悪感についていっしょに考えることができます。井上さんのおっしゃるように、それもスピリチュアル・ケアのひとつだったのですね。
日本は、初七日、49日、一周忌と親しい人が集まり個人の思い出を語り合うのによいしきたりがあります。若い時はそんなしきたりが、型にはまってめんどうくさく感じたものですが、日本の精神文化に裏打ちされたスピリチュアルケアだったと今は思えます。仏教式の多いこのしきたりをになうお坊さん達は、時代の変化にそって宗教的なマニュアルをこえてもっと生病老死になやむ人の心によりそう努力と学びが必要かと門外漢ながら思います。若いお坊さん達の間の新しいうごきはもちろん目にしています。
スピリチュアリティについて、今回の書簡シリーズでは色々と教えていただきました。この場でのやりとりも終わりに近づいてきました。ぜひ、この半年にかかわっていただいた症例について、患者さんのプライバシーに配慮しながら具体的なスピリチュアルケアの様子を教えてくださいませんか?
患者さんは60代の女性。がんの発見時1年未満の余命が告げられました。真実を共有する意識のもと、御主人と御本人はどんなにつらい告知も説明も2人でうけとめました。はじめの頃は治療をうけるのにしても、最終的には、私の在宅ホスピスケアを受けたいと決心して御相談にいらっしゃいました。私はアドバイザーのような役目もひきうけました。若い頃から事業にのり出し、精力的に働いて成功してきた御主人のそれを支え、子育てをとりしきってきた奥さん。おふたりには共通に演劇の趣味と才能があり、やっとふたりでそれに取り組もうとしていた矢先の発病だったそうです。個性と知性のぶつかり合うカップルでした。御主人のことは私も存知あげていましたので、奥さんの身体、心の痛みには全力で取り組むことは私の方で、できるにしても、このふたりの魂の叫びにじっくりと向かい合って下さる人材が必要だと感じました。
井上さんは高野山大学のスピリチュアルケア科の先生です。もちろん、スピリチュアルケアは宗教者以外でもできることだと知ってはいますが、現状ではスピリチュアリティ(魂)の学びは宗教的学びに重なっています。宗教者がするというイメージが大きいです。おまけに、還俗したとはいえ、井上さんは頭を丸めていらして、落ち着いているそのみかけはお坊さんですし(失礼!)
「無宗教」であると公言する人が多い日本人には、病人のそばにお坊さんが近づくことに抵抗感を持つ人も多いことを知って下さいね。
お坊さんイコールお葬式イコール死イコール不吉と考えてしまう庶民も多いのです。それは日本の仏教のひとつの歴史的現実なのかもしれません。生意気な表現はぜひお許し下さい。
10年前に友人のお坊さんを死の恐怖に苦しむ患者さんのスピリチュアルケアに紹介しようとしたら“宗教の勧誘か?”とその人がおこり出し、転医してしまった患者さんもいたのです。
しかし、このおふたりには井上さんの知性と学びと実践をうけとめる力がおありだと判断し、私はご紹介したのです。ふり返ってみて本当に助かりました。数々の危機を2人はのりこえ、よりそい続けた御主人は、奥さんのいのちをむこう岸へ無事に送り届けました。おそらく、あまり負けを知らず生きてきたその方が、おだやかな日々のくらしにおりこまれたいのちの最期の日々をみつめて下さいました。安らかに息を引きとった奥さんのお顔をみながら「先生、死は敗北ではないね。くらしの中にある普通のことだね」とおっしゃいました。それをきいて私は本当にうれしかったです。半年の小康状態から亡る直前までのスピリチュアルケアの一部を教えて下さい。そしてこれは次回のお願いでもあるのですが、井上さんの学んできたヴィパッサナーの瞑想法を私たち現代人ができるのか?ぜひそのエッセンスを少しだけ教えて下さい。「今を生きる」というその秘けつをうかがいたいのです。
内藤いづみ