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毎日が発見2007年12月号より


毎日が発見2007年12月号より抜粋
book12.gif 山梨県甲府市の開業医、内藤いづみさんの往診に同行したのは、さわやかな秋晴れの午後だった。ブラウスにパンツ、買い物袋のようなバッグとお菓子を入れた紙袋を持った内藤さんは、カメラマンの運転する車に乗り込んだ。
「私、注射はうまいんですけど駐車がだめなの。だから近いところはもっばらママチャリです」
 市街地を抜けて静かな住宅街へ、往診先のKさん宅に到着。こんにちはと声をかけ、慣れた様子で家の中に入っていく内藤さん。一階の日当たりのいい座敷に布団が敷かれ、女性が寝ている。
「いかがですか、今日は何か食べられた? 痛みはありませんか」
 手を取り、話をして診察は終わり。家族が用意してくださった肉まんをほおばりつつ、隣家の人まで加わってきて世間話。いつの間にかKさんも起き出して、話は盛り上がる。「あしたは看護師のYさんが来ますから」と言い残し、Kさん自らに見送られておいとまする……。
 風邪で寝ている親戚のおばさんのお見舞いといった風情だが、実はKさんは末期がんの患者さん。点滴のチューブ一本もなく、住み慣れた自宅の畳の上で残された時を家族とともに穏やかに過ごしている。たくさんの機械につながれ、苦痛と孤独の中で息絶えるという末期がんのイメージからはほど遠い、平穏で日常的な時間の流れ 在宅ホスピスってこういうことなのか、と合点した。
命と向き合う仕事がしたいと、甲府で小さなクリニックを開業
 内藤さんは一九五六年山梨県生まれ。読書が大好きな文系少女だった。幼稚園児のころ母が乳がんを患い、病院の手術室の前でまんじりともせず過ごした経験が、今日につながる最初のきっかけだったのかもしれない。その少し前には祖母が自宅で亡くなっている。
一緒に暮らしていた人が冷たく固くなって動かなくなる。命とは何なのだろうと、幼心に考えた。
 医師を目指したのは中学生のとき。命について学びたい。命と向き合う仕事がしたいと決意した。念願かなって医学部に進学したものの、周囲とのズレを感じるようになる。授業では人間は臓器に分割され、人間そのものを見る視点が感じられない。学生たちの興味はもっばら最先端医療や研究に向けられ、命や心の問題について語り合える仲間はいなかった。
 大学病院で働くようになって違和感はますます大きくなった。告知されず、自分に残された時間が限られていることも知らされずに、不安と恐怖に苛まれるがん患者。うそに疲れ、患者と顔を合わせるのがつらいという家族。延命第一で手術や抗がん剤など積極的治療最優先、モルヒネへの偏見・無知から患者の痛みに無頓着な医療者。そのあげくに患者はいくつものチューブに縛られ、苦しみながら亡くなっていく。
これが私が志した医療なのだろうか。命に関する思いや感情が否定される医療現場への疑問が膨らんだ。
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(大学病院で研修医をしていたころの内藤さん)
 そんなとき転機が訪れた。内藤さんはイギリス人と結婚。自分の人生を一皮白紙に戻したくて、夫の故郷スコットランドに住むことに決めた。そこで出会ったホスピスが内藤さんを今に導くことになる。イギリスは近代ホスピス発祥の地で、渡英した八六年当時、あちこちでホスピスを立ち上げる運動が起きていた。そのいくつかを訪ねて目を見張った。
 日本だったらベッドに寝たきりにな っているはずの末期がんの患者たちがパジャマでなくきちんとおしゃれしてお茶を飲んだり、ゲームをしたりおしゃべりをしたりしている。ほとんどの人はモルヒネを飲みながら痛みをコントロールしているので、笑顔でいられる。病人という枠に押し込まれることなく、一人の人間として最期の命を輝かせて生きている。目からうろこの落ちる思いだった。ここで出会った患者さんの幸せな最期を日本にも伝えたい。日本にもホスピスを広めたい。そんな思いに押されて、九三年夫と三人の子供とともに帰国、二年後甲府市内に小さなクリニックを開業した。以来在宅ホスピス医として往診に、講演にと忙しい日々を送っている。


ホスピスとは
本来ホスピスはホスピタリティ(温かくもてなす)から来た言葉で、聖地エルサレムへ向かう巡礼の人たちが長い旅の途中で体を休めるための施設、またそのもてなしのことだった○近代ホスピス発祥の地イギリスで、「現代ホスピスの母」と呼ばれるシシリー・ソンダース女史によると「ホスピスとは建物ではなく、中身、哲学」。治療の見込みがほとんどなくなった患者さんの心と体の痛みを取り除き、本人だけでなく、家族をも支える活動のことを意味する。


最期までその人らしく生きるため、患者さんと家族のお手伝いを
 日本で在宅ホスピスを続けて十二年。在宅ホスピス医の草分けですね。
末期がんの患者さんを家で看取るなんてできっこない、という時代でした。小学生だった長男がいみじくも言ったんです。「ママが往診する患者さんは百%死んじゃうね。命を助けるのがお医者さんの仕事なんじゃないの」と。
「ママは命は取り返せないけれど、最期まで『今を生きる』ということの手助けをしているんだよ」と話しました。ホスピスとはそういう活動のことだと思っています。
 具体的にお話ししますと、今私が診ている末期がんの患者さんは三人。地域の訪問看護師さんたちとチームを組んで、計画的に往診しています。いつも痛くないように、穏やかに笑っていられるように、何とか食べられるように、看護師さんと協力して患者さんを診るのが私たち在宅ホスピス医の仕事です。
家で死にたい、看取りたいと思っていも、実際できるかどうか不安です。
私たちがお引き受けする時の条件として挙げているのは、
1.本人が病気について告知を受けていること。
2.家族の協力態勢ができていること。
3.医療機関と連携が取れること。
4.交通費などの実費経費のご負担を了解していただける
ことの四点です。バリアフリーかどうかなど、家の造りや大きさはあまり問題になりません。早い話、本人の意志と家族の覚悟があれば道は開けます。
 ですが、気持ちはあっても事情が許さないこともあるでしょうから、在宅を無理にすすめたりはしないし、在宅ホスピスが最高と言ったこともありません。無理してやっても患者さんとご家族が幸せでなければ意味がない。それを選ぶのは患者さんとそのご家族なのです。
071128_02.jpg在宅ホスピスでは「家族力」が問われるのですね。
 その通りです。とはいえ最初からご家族全員が在宅に前向きであることは少ないのです。むしろ意見の食い違いがあるほうが普通で、何度か本音で話し合い、バラバラの意見をまとめ、最終的には骨で一致団結して支えていこうという方向が生まれる。それができないと在宅はちょっと難しいですね。
 素人に看護できるだろうかと不安がる方もいますが、それは実地で学んでいけばいい。今は完全看護の病院が多いので、家族は看護師がやるのを見ているだけですが、家では家族がやる。
それは大変だけれども、やればできるのです。そういう体験はあとになって必ず家族みんなの力になります。頑張ったね、これでよかったねと泣き笑いするときがやってくるのです。
 今は病院で亡くなる人が多いので、人がどんなふうに亡くなっていくのか立ち合う機会が少ないでしょう。見ていないから、知らないから必要以上に不安になるのだと思いますが、昔はお産も看取りも家でやっていたわけだし、そんなに大それたことではないはずです。
 ご家族の方に知っておいていただきたいのは、がん患者の看取りは期間が限られているということ。私の経験では大体外来から往診に移って八十日くらい。いつまで続くかわからないお年寄りの介護とは違うので、仕事を休んでその間そばにいてあげるという選択肢もあるはずです。
治療をあきらめてホスピスに移行する時期を見極めるのは難しいですね。
 確かにそうですね。病院の医師の中には「内藤先生の所は末期の死にそうな人が行く所だ。あなたはまだ早い」なんて言う人がいてどうかと思うのですが、私たちにしても万策尽きて見捨てられるような形で送り込まれるのでは困ります。
071128_04.jpg 理想を言えばこれまでの主治医から紹介状をいただいて、その病院で積極的な治療を続けながら私たちのほうで緩和ケアをはじめ、連絡を取り合いながらだんだん媛和ケアの比重を大きくして、在宅ホスピスに移っていければいい。何より時間をかけて信頼関係を築くことが大事なので、早めに顔見知りになっておきたいですね。
病院の緩和ケア病棟と在宅ホスピスのいちばん大きな違いは何でしょう。
 病院というところは医療者が主役。すべては医師主導で進められ、患者さんは遠慮しながらそれに従うことになります。一方自宅ではその立場が逆転します。患者さんの家に医療者がお邪魔するわけです。そういう自分が主人公でいられる場所で、残りの命に希望を与えるのが在宅ホスピスだと思いま
す。
 近年膚和ケア病棟が増えてきていますが、そこに命のエネルギーが流れているかが問題です。日常と遮断された死の気配が濃厚な空間になってはいまいか、と。
 在宅であれば家族がいて日々の営みがあってその中で療養し、最期を迎える。トータルな暮らしの一こまであって、そこだけ切り取って濃縮した病棟とは流れている空気が違います。
 在宅では多くの場合余命が延びるような気がします。安心してリラックスできるので、ストレスが少ないからではないでしょうか。
治る見込みのない患者さんと向き合うときには、どのようなことを大切にしていらっしやいますか。
 ホスピスケアはあきらめたり見捨てたりすることではなく、最期まであなたの命を支えますということを伝えたいですね。末期の患者さんで自分の病状がわかっている人でも、みんなほんの少しは治るのではという希望を持っているものです。だれでも死の受容など簡単にはできない。それは生きていく上で必要なことです。希望は否定せず、けれどうそはつかず、患者さんが希望と現実の折り合いをつけていけるよう、愛情を持って忍耐強く、明るく自然に話す技術が必要です。


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永六輔さんは内藤いづみ応援団長
内藤いづみさんのようなお医者さんが近くにいたら、どんなに心強いだろう。内藤さんの活動を皆に知らせたい。こういう活動を日本全国に広めたい-一内藤さんに一度でも会った人はそう思うに違いない。だから内藤さんには強力な応援団がいる。その代表とも言うべきなのが永六輔さん。ホスピスの勉強会が緑で数年前に知り合い、以来二人三脚のトークショーを各地で展開している。十月初め、山梨県富士吉田市の正福寺というお寺で開かれた会合で永さんは「内藤さんはぽくの大好きな先生、頼りになる女、ぽくの山梨の主治医。内藤さんに出会ってホスピスの何たるかがわかった」と紹介した。
内藤さんの著書『最高に幸せな生き方、死の迎え方』(講談社)の前書きから永さんの言葉を一部引用させていただこう。
「内藤さんを見ていると日本の医療が見えてくる。彼女が在宅ホスピスという医療現場で働いている姿には頭が下がるが、それが日本の医療の中では異質であることに問題がある。内藤さんを見ていると日本の家族が見えてくる。イギリス人の夫と三人の子供が彼女の活動を支えているのがよくわかる。そのことを誇りにし、家族のエピソードで笑わせるときの彼女のなんと幸せそうなこと。家族に感謝している医者を見つめ、患者の安心感はさらに広がる。内藤さんを見ていていると、日本の未来が見えてくる。多くの女性医師、女性スタッフが保守的な日本の医療界に風穴を開けつつあるという実感、山梨県が女性の健康長寿の一位だということがよくわかる。


 積極治療の効果がなくなると多くの医師は敗北感、挫折感を味わいます。それは患者さんにも伝わる。マイナスのオーラが出るという。対して私たちにも、積極的に診てくださる感じがして救われたと言ってくださる方もいます。
たくさんの方の最期を看取られて、生と死についてどんな思いをお持ちですか?
 最近、スピリチュアルペイン、霊的な痛みということを考えます。末期の患者さんはよく「だるさ」を訴えます。
もやもやとした身の置き所のないような、底なし沼に引き込まれるような重苦しさだといいます。その昔しみは医療では取れない。たぶんそれは誕生の苦しみとは逆の、死にゆく道程での苦しみ、陣痛の逆の苦しみだという気がするのです。
 病院のホスピスでは最期はセデーション(鎮静)つまり眠らされてしまうことが多い。ちょうど無痛分娩のように。確かに患者さんは苦しまずに静かに亡くなるわけですから、家族も安心です。ですが、そのような魂の痛みを医療で抑え込んでしまっていいものか。産む力、生まれる力が備わっているように、人間には本来死ぬ力があるのではないか。それを無視してしまってもいいのだろうか。
 人が誕生するとき助産婦が母子を支えるように、声をかけたり抱き締めたりさすったりしてその昔しみをなだめるのが、ご家族と私たちの仕事ではないかと思うようになりました。
 私は二百人近い方を在宅で看取りましたが、人工的に眠らせたことは一度もありません。自然にご臨終を遂げたときには私たちも満ち足りた思いになります。立派な人生を見届けたという感じで、おかしな話ですが拍手を送りたくなります。
イギリス人のご主人と三人のお子さんのいる家庭をお持ちです。仕事との両立で悩むことはありませんか?
 私も家に帰ればトイレ掃除もお弁当作りもする主婦です。それが仕事の疲労回復になっているのではないでしょうか。仕事に専念できる男性や独身の先生をうらやましく思ったこともありますが、私は両方やれてよかった、豊かさをいただけて得したと思っています。
 在宅ホスピスでは、私たちはいつもあなたとつながっていますよという安心感が大事です。ですから二十四時間気が抜けない。携帯電話は手放せないし、夜中でも飛び出せるようパジャマに着替えられないときもあります。
 私は能天気だからできるのかも。百パーセントシリアスだったら燃え尽きてしまうでしょう。ずっと張り詰めているわけでなく、どこかで緩急のメリハリをつけているのだと思います。
 今、国は医療費削減のため、治療方法のなくなった患者さんを病院から追い出すという方向を打ち出しています。みんな病院から家に帰される時代がすぐそこに来ています。それには在宅ホスピスを引き受けてくれる医師が圧倒的に足りない。この仕事は大変だけれどせっかく人と向き合う医療という仕事に就いたんだから頑張ってみようよと、多くの医療者に伝えたいですね。


内藤いづみ先生のこと    遠藤順子
 主人遠藤周作が内藤いづみ先生から初めて電話を頂いたのは、もう四半世紀以上前のことになります。たしか1982年に主人が心温かい病院運動」を提言してから問もない頃だったように記憶しています。当時いづみ先生は女子医大にお勤めで、初めて担当された若いがん患者の女性を気遣う真剣さが電話からも充分伝わってきたそうです。感動した遠藤は、珍しくもその日のうちにすぐさまお目に掛かって話を伺っています。そしてこの方こそ自分が求めていた医師であり、患者が理想とする医療を逆方向の医師という立場から共に支え、推進していって下さる方と直感したようでした。まだ日本ではがんの告知がタブーな頃の話です。「死にゆく人問がいかにして心身の平安を得て死を迎えられるか」というテーマは、絶えず死と直面していた病弱な主人にとっては切実なものでした。
071128_05.jpg 彼の持論であった「医者と神父と作家は人問の魂に手を突っ込む仕事」という物書きとしての覚悟のほども、長いお付き合いの中で自然と共有されていったのでしょう。初めていづみ先生が担当された末期がんの娘さんは、いづみ先生の勇気ある決断と努力で自宅療養となり、その結果、がん聴有の激痛からも解放されて数カ月後、死を迎える日まで痛みは取り除かれていて∫いづみ先生ありがとう」の言葉を残して凍立たれた由です。その後いづみ先生はよき伴侶に恵まれ、ホスピス医療と溝和ケア発祥の地であるイギリスへ渡られ研鋳を積まれて帰国された後、故郷の甲府で開業。自宅で死を迎えたい希望のがん患者を24時間態勢で支えておられます。当初はやっかみ半分から日本男児にあるまじきお粗末な妨害も数々あったように伝聞していますが、今や実輯が証明する壌和ケア技術の水準の高さと、いづみ先生の志の強さは日本中の心ある人々の問に知れ渡っています。どうぞ益々ご健闘下さいますようお祈り致しております。