いのちに寄り添って泣いて、笑って、”いい塩梅”で
スコーレフレンズ25号より
山梨県甲府市のふじ内科クリニック院長・内藤いづみさんは、在宅ホスピス医として、いのちの最期に寄り添い続けています。
日本で在宅ホスピス医に
大学病院の内科医になった20代後半の内藤いづみさんは、先端医療の現場で、死に向き合った患者さんの痛みに寄り添うための医療を教わっていないことに苦悩していました。
「医学生の時から感じていた『人間を人間として見る視点のない医療』への疑問は、どんどん大きくなっていくばかりでした。作家の遠藤周作先生の『心のあたたかな病院がほしい』という文章を目にして、切々と思いを綴った手紙を送り、お目にかかったのも、この頃です」
内藤さんは29歳の時、学生時代に知り合い、文通を続けていた英国人のピーターさんと結婚。帰国が決まった夫と1986年に渡英し、スコットランドのグラスゴーで暮らし始めます。近代ホスピス発祥の地である英国では冬至、ホスピスを立ち上げるムーブメントが盛んでした。
「渡英2年目に長男、4年目に長女を出産した私は、子育てをしながら、ボランティアの非常勤医師としてホスピスの研修を続けました。そこで、日本では病院のベッドに寝たきりになっている末期がんの患者さんたちが、地域のボランティアに支えられ、自宅で幸せな終末期を過ごしているという現実を目の当たりにしたのです。やっと自分の目指す医療に出合えた私は、また日本の医療の第一線で働きたい、そして、日本にホスピスを広めるための社会的な行動を起こさなくては、という思いが次第に強くなっていきました」
いのちのメッセージ
妻の熱意を理解したピーターさんは転職を決め、一家4人は1991年に日本へ。内藤さんが中学~高校時代を過ごした山梨県甲府市に居を構えました。
「私は帰国後、甲府市内の病院に勤め、1992年に有志と『山梨ホスピス研究会』を発足させました。その翌年には次女を出産し、夫と共に3人の子どもを育てながら、1995年に在宅ホスピス医の活動の拠点となる診療所を開設しました」
自らの診療所「ふじ内科クリニック」の院長となった内藤さんは、念願の”いのちの最期の日々に全力で寄り添う仕事”に打ち込みました。
在宅の重症の末期患者に24時間体制で対応する仕事は、心身ともにハードで、常に重い責任が伴います。「医師会にも入らない”はみ出し医者”の私は、地位も名誉もお金にも縁がありません。でも、多くのいのちの旅立ちに立ち会って、その一人ひとりからたくさんの感動や希望を受け取ってきました。ご家族と共に患者さんのいのちの最期に寄り添えたことを誇りに思い、託された貴重な”いのちのメッセージ”を社会に届けるために、本を出版し、新聞やラジオ、テレビで発言し、学習会や講演会なども積極的に行ってきました」
いい塩梅の着地点を
内藤さんが日本の在宅ホスピスケアの先駆けとなって30年余りが過ぎ、社会構造も医療の状況も大きく変化しました。
「在宅ケアが国の方針になり、ホスピスケアは緩和ケアとして広がって、最期の選択肢が増えています。そこへ発生した”コロナ禍”は社会のデジタル化を加速させて、人が人と向き合うという当たり前のことが減ってしまいました。ただ、人生もいのちも、決してデジタルなものではありません。”0か1か”の二者択一を即決するデジタルの世界が便利で楽だという考えが、ずっと私には疑問でした」
他人を許し、自分を許す人間らしい最期
がんと認知症と共に人生の最終章を生き抜いた患者さんの言葉が、内藤さんの疑問に大きなヒントを遺してくれました。
「息子さん夫婦、ケアマネジャーさん、私たち医療従事者でケア会議をしていた時、真ん中で聞いていた患者さんが一筋の涙を流して、『ありがとう。いい塩梅でお願いします』と言いました。完璧でなくても、良い着地点を見つけてくれれば、それでいい。他人を許し、自分を許し、ほっとできる人間らしい社会の知恵が”いい塩梅”だったのです。なんて素晴らしい!」
デジタル時代を生き抜きためのキーワード”いい塩梅”の世界観を援軍に、内藤さんは、対等ないのちの仲間である患者さんの最期に寄り添い続けます。