敗北でない最期 探したい
10月14日読売新聞より抜粋
<「死は敗北である」。私は医学生のころ、そう教わりました。いえ、明確にそう教わったのではないけれど、医療現場には、そうした空気が充満していました>
著書の書き出しに、こう記している。「医者になりたくてなったのに、医者の世界になじめない。今も医師会に入っていないのは、そういうことだと思う」
治る患者と治らない患者を峻別する。一方はハイテクを駆使して徹底的な治療を施し、一方は延命と称して孤独に捨て置かれる。医者や教授はとことん偉くて、患者は意志も奪われる。
学生時代、既にそんな喪失感を覚えたはずの大学病院の世界に内科医として再び入った。1週間で「もういたくない」と思った。でもどうすればいいかわからない。
在宅ケアの「形」
そのころ、ある23歳の女性患者に出会った。末期がんが膵臓から肺に転移し、抗がん剤の副作用による衰弱も激しかった。27歳の、主治医でもない自分が「出たい?」と聞くと、彼女は「ぜひ。ここにいるのは限界」と答えた。在宅ホスピス医 末期患者の最期を患者の自宅でケアするという思いが、初めておぼろげながら形に見えた。
両親の了解を得た上で退院許可をもらい、出勤前には必ず彼女の自宅を往診した。取り留めのない会話に高じ、日に何度も電話をかけて容体を確認する。マッサージが楽と聞いて、東京から大阪まで酸素ボンベを担いで専門家の元へ付き添った。
「病院のこと怖い?」と聞くと、「いいえ、全然」と答えた。4か月後、彼女は母親に背中をさすられ、静かに息を引き取った。
「ひとりで訪問看護をしたあの時の選択がベストとは思わない。でも彼女が『内藤さんが家で私を診てくれるから心配は何もない』と言ってくれたことがうれしかった」
程なくイギリス・グラスゴーヘ渡り、本場のホスピス施設で研修を積んだ。1992年、生まれ育った山梨で山梨ホスピス研究会を結成した。
3年後の95年には、全国的にも数少ない在宅ホスピス医としての拠点「ふじ内科クリニック」を開設する。
医者は自分ひとり、看護師などのスタッフは6人。狭い診察室に手術台は、もちろんない。夜は枕元に携帯と診察カバンを置き、ジャージー姿で布団に潜る。手の届く範囲でひとりひとりの末期患者を丁寧に訪ね、語らい、飲食を共にし、笑い合う。これまでに150人をみとった。
もちろん、その人らしい最期のあり方が、在宅療養だけにあるとは思わない。極限まで苦痛や孤独に耐えても病院にこだわるというなら、それもアリだろう。
ただ自分は医者として「敗北では決してない、心豊かな死のあり方」を、とことん突き詰めたいと思う。
(10月14日読売新聞より抜粋 文章・写真 宇佐美伸様)