見上げてごらん 夜の星を
永六輔&内藤いづみ(旭川青年大学学生だより「虹」第30期10月号、9月講座より抜粋)
永 ぼくはパーキンソン病です。言葉が詰まり、ろれつが回らなくなる。指先が震えて字が書けなくなる。もうだめだと思ったんだけど、小沢昭一など、友達が励ましてくれるのでがんばっているんです。内藤先生からも元気をもらっています。
それまで病院が大嫌いで、医者なんてろくなもんじゃない、病院のシステムは良くないって、放送でも平気で言っていました。けれど病気や怪我をするようになってみると、それほど悪くなかった。
いずれ命はなくなっちゃうんですね。いい死に方、周りも自分も良かったと思える死を迎えるためには、自分がどういう患者か、相手がどういう医者かを知ることが大事です。たまには褒めた冗談を言ったりして、医者や看護師とは仲良くならないとだめ。両方で気を使い合っているようじゃだめです。
内藤 そのコツを教えて下さい。
永 命と向き合って、死に方の用意をしておくことです。周りから「いい死に方だったねーと言われるためのトレーニングを我々はしなきゃいけない。ホスピスや在宅がとても大事。それにはご近所や友達が大事だとも痛感しました。医療者には、医者になろう、看護師、介護士になろうと思った時のことを思い出してほしい。同じように私たち患者は「ありがたい」と思った時に戻ればいい。意見をぶつけて仲良くなることもあります。
内藤 本音でぶつからないとだめですね。最期を任せられる医者を探す為には、軽い病気のときにじっくり医者を見つけてほしいです。
医者や看護師を初心に戻らせる力は患者にも必要ですよね。
永 病気になったら、治してもらうことばかり考えないで、患者として日本の医療に何ができるのかを是非考えてほしい。ケンカしたっていいんです。
内藤 私は30年間ホスピスに取り組んできました。永と出会えたのはそのおかげです。
ガンになると、昔は辛い状況でしたが、色々な人の支えがあれば生ききることができることを、この30年で学びました。
ヨーロッパで始まったホスピスの緩和ケアの考え方は、世界中に広まり、いま日本でも緩和ケア病棟が増えていて、体の痛みでのだうちまわることはない時代になりました。
私かイギリスでホスピスを学び、故郷の甲府に戻ってホスピスを始めた頃、最も理解が得られなかったのはお医者さんです。「医者の使命は病気を治すことだろ。治せないと証明された人を助けるのは医療じゃない」
と言われました。ですから私にとって時間がかかっても確実な方法は、この青年大学のような方々と一緒に学ぶことでした。命の主人公が変わらないと、世の中は変わらないんですね。
永さんは、いじめられている私を見てよく助けてくれました。日本中のホスピス活動を助けてくれたのです。そういう人はあまりいません。奥さんがガンであることがわかった時にも、自宅で看取るという、最高に幸せで、最高に難しい道を選びました。
私はホスピスの啓蒙活動を続けてきて、1つ階段を登ったと思うのは、昨年山梨でホスピスの学校を作ったことです。12月には甲府市で内田麟太郎さんという素晴らしい絵本作家の講演会と勉強会を開くことになっており、北海道からもたくさんの人が来てくれることになっています。命の勉強です。
緩和ケアを受けながら、死ぬ間際まで庭造りをしていたおじいちゃんがいます。いちばんやりたいことは孫やひ孫のためにきれいな庭を作ることだとおっしゃっていました。その後ろには、胆の据わった家族と、サポートする医療者がいます。
おじいちゃんのしたいことをみんなで支えました。とても勇気のいることです。病院に頼りきりだった時代が長く続いていましたから。
命が終わるとき、どんな嘘をついていても、周りがちゃんと支えていれば、本人にはそれがわかります。
あるおじいちゃんは、奥さんが作った重湯を「堪忍してくれ」と押し返しました。ところがかわいい孫が介助すると、一口ごくんと飲み込んだのです。命が一さじ分伸びたと、奥さんは喜びました。医療者はすぐ理屈を言いますが、目の前にいる人たちが、命の最期をどう過ごしているかを、もっと聞く耳を持って知らなければならないと思います。
患者さんがお家で過ごすため、私たちは全力で体の痛みを緩和します。それは、痛み止めのさじ加減ができる医者がいれば絶対大丈夫。「そういうことをしてくれる先生や、訪問看護ステーションがない」というなら地域で声を上げてください。
言わなきや動きませんよ。
人間って不思議です。とても臆病なおじいちゃんがいました。病院が怖くて病気が 進行し、すでに手遅れ。入院は嫌だと在宅ケアを望みますが、その方の家族は心 がパラパラでとても無理のようです。ところがある日、私が司会をした家族会議で、パっと家族の心がひとつになり家で看ると決まったのです。実は、それを見極めるように亡
くなる方も多いんです。私が会議の結果を報告しに行くと、おじいちゃんは澄んだ目で私を見て、「あっ先生、ぼく何も心配することがなくなりました。行く所が今日わかったんです。そこには3年前に亡くなった女房が待っているんだ」と言い、その夜、安らかに亡くなったのです。在宅では、このように不思議なことをたくさん経験します。
永 ぼくは亡くなった友達とよく会います。生きているときに仲良くしていたからです。渥美清、いずみたく、中村八大、坂本九……。ふっと見るといるんですよ。
ぼくは騒ぎませんよ。ああここにいるんだと。ぼくね、「草葉の陰」つてとっても大事な言葉だと思うんです。
内藤 井上ひさしさんとも会いますか?
永 会います。
内藤 釜石小学校の校歌は井上さんが生前、作詞したもので、その中の「息あるうちはいきいき生き亘という言葉が、私は大好きです。
『夢で会いましよう』
「僕が食べたかったラーメン・僕を待っていたラーメン…」
今も色紙が残るラーメン店で永六輔さんは、味噌味を豪快に食べた後、残り汁にご飯を入れて更に胃袋へ。となりには醤油味を吟味しながら笑顔絶やさぬ今は亡き奥様がいた。第八期(平成元年)十一月三回目の来校となったこの時はご夫妻で旭川入り、昼食のあと買い物公園を歩き、三浦文学登場の喫茶店「ちろる」で占き良き空間と豆本、コーヒーを楽しみ、そして講演会場までのご案内となりました。
旭川スタルヒン球場に立つスタルヒンの銅像を「郷土が誇る偉大な野球人」と眺めながら何万人の人が行き過ぎたでしょうか。されど、非凡の才入水六輔はこの銅像の前に立ち
「ロシアから来たスタルヒンが、アメリカのスポーツのユニホームを着て、日本の銅像になっているということは、まさに米・ソ・日・世界平和のシンボルの像です」
とペンを走らせました。
時はまだ米ソ冷戦時代の旭川青年大学第三期(昭和六十年)に初めて登場されたときの語録です。是非ともお伝えしておきたい。
昨年の事、三十期の節目に必ず来ていただきたい大切な人、自ら「僕は旭川青年大学の常任講師だ」と名乗っていただいた永六輔さん、過去六回の講演、そしてラジオで週刊誌で、旭川青年大学の事を宣伝していただいた。パーキンソン病、転倒による骨折で来校は無理かなーと思っていたところ、「大丈夫、私か付いて行きますよ」と内藤いづみ先生の助っ人宣言、本当に嬉しかった。お医者さんが一緒なら安心してお迎えできる。「必ず行きますよ~」永六輔さんの返事が届いた。
今回、七回目の講演後の運営委員との懇親会にも短い時間でしたがお顔を見せてくれました。「来月は舞の海かい、とっても仲がいいんだよ。よし!謡おう」車椅子からしっかりと
立ちあがり、相撲甚句の一節を披露してくれました。謡うその声は張りのある艶やかな声で、思わず涙が落ちそうになったのは私だけではなかったと思う。聴いていた皆さんが上を向いていたから、涙がこぼれないように…
渥美清、中村八大、いずみたく、そして坂本九ちゃんにもしょっちゅう会っていると話されていた。そうそう黒柳徹子もいるとつけ加えたこの時、永六輔さんはまだまだ夜の星にならないと私は確信した。
「また呼んでよ!」「八回目かい!」永六輔さんの背中から声がした。