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遠藤周作先生との深い思い出


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遠藤 内藤先生はお医者さまでありながら、ご結婚以来ずっとイギリスにいってらっしゃって、現地のいろんなホスピスをご覧になった。また、中でボランティアとしてお働きになった経験がおありなんですね。もともとホスピスはイギリスが発祥の地ですから、今日はそのお藷を聞かせてください。
 こんな周作先生の発言で対談は開始しました。この対談は岩波書店の 『世界』 1991年10月号に掲載され、その後、自著 『あした野原に出てみよう』に再録させていただきましたが、この対談は私の医療の変わらぬ原点となったのです。
 この号では周作先生との思い出を求めて長崎県を訪ねた紀行をもとにまとめてみました。
魂に触れる仕事
 医者の役割とは、病を発見し、臓器を治し、いのちを延命させ、常に科学的な冷静な立場でいることだけだろうか、と二十五年前の研修医の私は悩みをかかえて働いていた。
 といっても、当時の私はその割りきれない悩みの原因をはっきりと分析できていたわけではなく、臨床医としての基本を学ぶべく東京のまん中の総合病院の前線で、内心オロオロと患者さんに向かい合っていた。そんなとき、「心あたたかな医療を作る運動」を始めた遠藤周作さんの記事は何を患者さんたちが望んでいるのか、具体的なメッセージにあふれていた。私は文豪におそれもせず手紙を送った。すると、すぐに返事をいただいたのである。
「医者で私の意見に賛同してくれたのはあなたが初めてです。直接話を伺いたい」
 二十五歳の私は臆面もなく周作先生に会いに出かけた。治る見込みのないガン患者さんに、告知もない状況で何を語ったらいいのか、どう役に立てるのかわからない、などといろいろと訴えた覚えがある。
 しかし、会見の後半は、ティールームで、目の前のトレイに並べられたきれいな小さなケーキのどれを選ぼうかと真剣に悩んでいたので、先生が「いくつでも食べなさい」などと、なかば苦笑しておっしゃったことのほうを今では鮮明に覚えているのだから、我ながらあきれてしまう。その後のおつき合いの中で先生は、若い娘が人の生命の最期に全人的にかかわることができるのか、と心配してくださって、いろいろと助言をくださった。
「あけぼの」 の対談にも呼んでくださった。私もかなり頑固だから 「必ずできます」 とか 「ぜったいにがんばります」 とか答えなかった。しかし、医者を続けていく以上、自分の魂の声を裏切った仕事はできないと考えていた。「たとえまわり道でも、ときには長い休憩に入ろうとも、悩みながら私なりの道を歩んでいきます」。私の出した若き日の答えはこんな生意気なものだった。
 先生はどこかでこうもおっしゃった。「人生経験が必要なんだよ。どれも大切だ。無駄なことなんてひとつもない。医者と神父は人の魂に手をつっこむ仕事なんだ。そのうちにわかる」
 私はこれを聞いて、正直、こわくなった。神父さまの世界のことは知らないが、人の魂に手をつっこむような仕事をしている医者が現代の医療界の中にたくさんいるとは思えなかった。
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■魂の痛みに注意をはらう■
 しかし、先生の言葉は深く私の心にくさびを打ち込み、私は結婚を機にイギリスへ渡り、七年を暮らした。
 帰国してからは、ふるさとの山梨で、イギリスの暮らしの中で学んだホスピスケアの啓蒙活動を続けている。うれしいことに、日本文化の中に溶け込めるか心配だったホスピスは、緩和ケア病棟として全国に増えつつある。
 私は病棟を持たずに (これにはいろいろと理由があるが) 看護師さんのチーム
と一緒に、在宅ホスピスケアをしている。
多くの患者は引き受けられない。二十四時間体制だ。ホスピスケアはトータルペインの緩和が大きな仕事の柱だ。体の痛みと苦しみを鎮痛剤で緩和する。心の悩みに向かい合う。社会的な存在を失う苦しみに向かい合う。そして、周作先生のおっしゃった魂の痛みに注意をはらう。
言葉でいうのは簡単だけれど。
 ところで、現代の病院がやさしいところになったかどうかは疑問だ。確かにきれいな病院は増えたし、患者は○○様と呼ばれ、見た目の接客サービスは良くなっているかもしれない。ガン告知は増え、どんな厳しい状況でも本人にストレートに告げられることが多くなった。
「肺ガンです。骨転移。胸水貯留。脳転移。抗ガン剤の選択肢はあります。自分で選んでください」
 こんな告知にショックを受ける人も多い。
■最期の大仕事■
 私のところにいらっしゃった患者さんは、よくこう訴える。
「医者はずっと画像を見ているんです。生身の私はここにいるのに。必要だったらどこでもセカンドオピニオンを聞きに行ってください、と言うのもコンピューターを見ながら」
「治してくれ、とは言っていない。手おくれだとわかっているもの。でも、もっとやさしく対応してほしかった。冷たくつき放す言葉ばかり。情がないの」
 進行ガンで、ときには手おくれになった患者さんを在宅で引き受けることは至難の道だ。お引き受けしたら私たちも必死だ。全身の苦痛緩和を合格点にしない限り、患者さんは、最期の宿題に取り組めないから。
 先日、七十五歳の肺ガンの女性の娘と息子が私の外来に相談にいらした。半年間、手術、抗ガン剤にかけてきたが、ついにもう治る見込みはなくなり、入院して日に日に弱ってきている。おまけに、呼吸の苦しみも増している。医者もナースも病室に訪れることも少なく、説明もしてくれないと訴える。
「家に帰りたいと毎日訴えています」
「では、すぐに。一日一日が大切ですからね」
 家に帰ってきて本人もほっとしたが、病状は深刻だった。彼女の残りの人生は少なそうだった。息子は独立していたが、娘は独身で母と二人。三十年以上仲良し姉妹のように暮らしてきていた。娘の人生にとっての母親の存在は重要だった。母亡きあと娘の喪失感は計り知れない。私たちは愛する人亡きあと、ぬけがらのようになってしまった人を見てきている。私は心の中で伝えた。
「あなたの体の苦しみが楽になるように私たちは最善をつくします。あなたはここに残る娘が、一人きりの人生を再び自分の足で歩んでいけるように力づけてください。それが最期の大仕事です」
 私は宗教家ではないから、けっしてそんなことを直接言えなかった。ただ、彼女の病状の緩和に必死に付き添った。いのちを終える、という大仕事をしている人に、それ以上のことを求めるなんて非情かもしれないと感じつつ……。
 十日目にやっと平安な夜を迎えた。母は枕元の子どもたちに語った。
「もう、いのちが短いことはわかっている。死は恐くない。精一杯生きてきて、幸せな人生だった。今の私の願いはひとつ。私がいなくなったあと、しつかりと強く人生を歩んでほしい」
 次の日に娘さんからその話を聞いたとき、私の祈りが聞き届けられたように感じて、何者かに感謝をささげたくなった。
この患者さんは、愛する人たちの人生に光をともして、この言葉の三日後に静かに昇天した。
 今年の七月、私は念願の長崎、外海町立遠藤周作文学館を訪ねることができた。海はどこまでも碧く美しかった。
「魂に触れる」 仕事の意味を投げかけてくださった周作先生の遺影に心を込めて挨拶した。