自分の選択をサポートしてもらえる幸せ
「向上」2021年7月号より
私は30年前から在宅ホスピス医という呼称を使っていますが、おそらく日本でホスピスケアという言葉が使われだした初めの頃だと思います。
ホスピスケアを実践するだけでなく、時間をやりくりして、招かれるところは、北は北海道の利尻島から南は沖縄まで講演に出掛け、専門家や一般の皆様に向けて「いのちの支え方」を伝えてきました。
30年以上前、日本ではがんの告知は一般的ではなく、本人には選択肢もありませんでした。がんであることを本人が知り、自分で納得して未来を選ぶこともできなかったのです。しかし今や自分の体の情報は自分で知る。それが常識になりました。世の中は本当にこんなに変わるのですね。
私は大学を卒業し、研修医として日本で働いた後、イギリス人の夫の転勤に伴ってイギリスのスコットランドに1986年に移住しました。文化も風土も医療も福祉も全く違う国で30代を過ごし、子供を2人産み、育てながらホスピスケアの核を学びました。
1980年代半ば、イギリスでは、ホスピスを立ち上げる運動があらゆる所で起きていました。まさに同じ時期移住した私は、ボランティアの一員としてホスピスの現場を経験する機会に恵まれました。そこで私か見たがん患者さんのあり方は、これまで日本の医療現場で見てきたものとは大きく違っていました。ほとんどの患者さんがモルヒネを服用し、痛みを取り除きながら自分らしい日常生活を過ごしていたのです。みんな、がんで余命幾ばくもないことを知っているのにもかかわらず、社会の一員として誇りをもち、病人という枠に閉じこもって孤独に陥ることもなく、笑顔で今を生きていました。
イギリスのホスピスは温かく、もてなしにあふれた場所でした。なにしろホスピスの語源はホスピタリティ(=もてなす)ですから。がんが進行しても患者さん本人が自宅で過ごすことを望めば、その人や家族をホームドクター(家庭医)と看護師およびスペシャリストナース(がん専門の訪問看護師)のグループ、牧師さんや神父さん、ソーシャルワーカーなど、多くの人で支えてくれているところに私は感動しました。
このようなイギリスのホスピスケア、在宅ケアを日本にも伝えたい。日本のがん患者さんにもイギリスのがん患者さんのような最期を迎えられるようにしたい。私はその気持ちが強くなり、イギリスでの生活が始まって7年目、人の協力を得て幼い子供と共に日本に戻って来たのです。
山梨県の甲府で開業以来、ホスピスケア、在宅ケアの哲学を伝えることに力を注ぎました。哲学とは、「自分の人生を、自分で選んで、しっかり生き抜いてもらうためのサポート」です。
私の仕事はいのちの最終章の人生を支えることなので、24時間体制です。夜も熟睡できません。神経も緊張して疲れますし、60歳を過ぎて身体的に限界の時もでてきました。でも、なぜ続けているのか?「いのちの不思議さと貴さに触れることができるから」だと思います。
医師になり40年が経ち、思い出深い患者さんは沢山います。Mさん(75歳)もそのおひとり。一生懸命地元で働いてきた方でした。慢性病があり大病院にずっと通院していましたが、私のところにも顔を出してくれました。後になって分かるのですが、この方は実は大きな病院という場所が怖くて大嫌いだったのです。
ある日、重体になり、緊急で入院の処置をしないといのちが危うい事態になりました。主治医からよく説明を受けた後、本人は宣言しました。「家に帰る。病院には暮らしがない」
病院での治療拒否です。家族がどんなに頼んでもダメでした。かわいい孫が必死に頼んでもダメでした。究極の本人の選択。その頑固さを家族は泣く泣く受け入れたのでした。そして、急に在宅ケアのお願いが私に来たのです。私もその責任の重さに潰れそうになりました。それから数日、家族の不眠不休の介護が続きました。余命が厳しく在宅ケアチームを作る時間もなく、ほぼ私だけで引き受けました。私もまた不眠不休でした。日に何度も夜も昼も往診しました。少しでもMさんが安らかになるために。
かわいい孫がピカピカした瞳でおじいちゃんの手を握って夜も付き添いました。近所の人や友人が次々とお見舞いに来ました。誰もMさんの選択を責めませんでした。Mさんの頑固さと、その生き方全てが愛されていることが分かりました。数日後、安らかに息を引き取りました。いのちを削る思いで看取った家族に後悔はありませんでした。彼の選んだ「人生の閉じ方」をしっかり支えることができたからだと思います。本当にご家族には勇気がありました。
自分の選択と決心をサポートしてもらえる人生は幸せです。そうなるためには自分の周りの人たち(家族、友人、隣人)を真面目に精一杯愛すること。Mさんから私はそう教えて頂きました。
さあ今日も学びつつ、自分の人生を生き抜くために。一歩ずつ進みましょう。