2019年の公立医学部の小論に、対談が使われました。
受験参考書を発刊している出版社から連絡がありました。ハルメクという雑誌での永六輔さんとの対談が私の本に載っていて、その一部が公立医学部の受験に使われたということでした。
大往生を望む患者に医者としてどう話すか?800字で述べよ、という出題でした。下に掲載します。あなたならどう答えますか?
読んだら、その時のことを思い出しました。
偉大な人に近づけた幸運を、今更ながらありがたいと心より思います。
それにしても、新型コロナ肺炎への対応で、心身ともに緊張しているこのタイミングで永さんからのお声が天から来た!「内藤さん、頑張りなさい、」
そう励まされたようにも感じる出来事でした。
永さん、ありがとう!
内藤いづみ
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以下の文章は、永六輔さん(作家)と内藤いづみさん(医師)の「大往生」に関する対談の一部である。これを読んで問いに答えなさい。
内藤:死なない人はいないんだし、死も生きていることの一部ですから、死を考えると、どう生きたいかが見えてきますよね。
永 :僕はね、死ぬことは怖くないんです。痛いのや苦しいのは嫌だけど、にっこり笑って死ぬならいい。
内藤:にっこり笑って死ぬためには、がんの場合はいい医師を見つけておくことです。
永 :いいお医者さんに巡り合うには、何人にも会うこと。ひとりの医者しか知らないのと何人も知っているのとでは、ぜんぜん違いますよ。「お医者さま」ではなく「お医者さん」と付き合うんです。
内藤:それは大事ですね。街角で会って「今日は元気?」って声を掛け合えるようなお医者さんがいいですね。
永 :街を歩いていて、内装の趣味がよくて感じのいい病院を見つけたら、ふらーっと中に入って「何かあったときにお願いします「何丁目何番地の永です」ってあいさつしておくんです。患者としてそれくらいのことしなきゃだめ。何もしないでいい死に方はできません。努力をしないと。これは死に方の修行です。
内藤:大往生のためには修行が必要ですね。
永 :往生というのはね。「往(い)って死ぬ」のではなく、「往って生きる」こと。亡くなった後、西方浄土、つまりあの世に往って生きるのです。「成仏」という言葉もありますね。死ぬのではなくて、仏に成る。
内藤:死に方の話が出てきましたが、命が終わりに向かっていくのというのは、自分自身でわかると思うんです。患者さんの中にもそれまで「死ぬのが怖い」と言っていた人が、亡くなる2日前に急にお地蔵さんのような穏やかな表情になることがあります。死もお産と同じです。「さあ、いよいよだぞ」という臨界期が自分の中でわかる。そうなると死は恐ろしいものではなくなると思うんです。残された時間を最期まで自分らしく生きるためには、やはり告知は必要だと思っています。
永 :僕は病気と加齢で忘れっぽくなってきています。人生であった出来事すべてを忘れるのが死です。だから、忘れたくないことがあったら、残る人に頼んでおかないといけないよね。戦争体験者はその体験を語っておくとか。
内藤:何を残して死んでいくのかを自分で見つけていくことは、人生の課題だと思いますね。体が動かなくなったら動かないなりに何ができるのか、人任せにせず元気なうちから考えておかないといけないとも思います。亡くなるまで自分の人生は自分の足で歩んでいくわけですから。おっしゃるとおり、修行です。
永 :自分には何を残して死ねるか。死に方を残すことは、生き方を残すことだと僕は思っていますよ。テレビやラジオの仕事はいろいろやってきたけれど、子どもや孫たちに人間はこうやって死ぬんだと、「死んでみせる」という仕事が僕には残っている。それがきっと僕にとって最後の大仕事になるんでしょうね。
ハメルク Web 「永六輔×内藤いづみ 理想の大往生とは」より引用
(https://halmek.co.jp//lstyle/1372#head4)
問 大往生を望む患者さん達に対して医師としてどの様な心構えで対処すべきか、上記の対談を参考にあなたの考えを800字以内で述べなさい。