ホスピス記事

すばらしい医療チームとの出会いに感謝


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母は、昭和二十八年父と結婚し、三年後父が「天疱瘡」にかかり、父の看病を四年四ヶ月しました。幸い病は完治し、それから二十数年後、今度は脳梗塞を患い十七年間の闘病生活に、七年前終わりを告げました。母の人生の四分の一は、父の介護のための病院生活でした。
私たちが母と暮らすことになったのは、父の四十九日の法要を済ませた後の今から七年前
孫(私の長男三歳)の面倒を見るため私たちとの同居が始まりました。
そして、二年前首の付け根の所にしこりを感じ、某外科医院へ受診した折り総合病院への受診を勧められました。
母がぽつりと首の付け根のしこりを見せながら私に「ここに、こんなものがでていて。」と言いました。背筋が凍り付くのを感じました。
早速某先生の外来を訪れ説明を聞き紹介状を頂いて、翌日総合病院の外来へと急ぎました。二人とも緊張とこれから先への不安で、お互いに無言でした。最初の検査では診断がつかず、リンパ節を取るための検査入院をすることになりました。結果は「胸線癌。」
治療方法は、三つでした。
一、手術療法。しかし、年齢的にも病変の位置が手術を行うのに大変難しい部位にありました。
二、化学療法。体全体への影響を考えると年齢的に無理があり不可能でありました。
三、放射線療法。癌の部位に放射線を当て一時的に症状を緩和する方法でした。
私たちが母のために取った選択は、住み慣れた家で家族と共に普段通りの生活を少しでも長く続けながら、母の残された命を有意義に送ってほしいと考え、積極的医療でなく、緩和医療と言う方法を選びました。そして、緩和医師を捜し、相談をしにふじ内科クリニックを訪れました。内藤先生は「大丈夫。きっと良い方法が見つかります。」と、力強い言葉に母も私も安堵しました。母自身の力で歩けるときは通院をしながら、必要に応じて総合病院へ受診する体制を整え安定した日々を送っていました一年が経過した後、先生から「いつ・何があっても不思議なことではありませんからね。」と伝えられました。
その後、2006年二月に入って母の体調に少しずつ変化が出始めました。
先生の判断と勧めで、「これからは往診をしましょう。呼吸器系のプロの訪問看護師さんと、信頼出来るケアマネージャーは長沼さんと言います。私に任せてくれますか。」と言われ、先生にすべてをお任せすると共に、私は介護休暇をとり、兄家族もこれに加わりすべての介護チームを結成し在宅介護の船出です。
終着点は、母の旅立ちの日です。どんな航海が待っているのだろうか、不安で一杯でした。時には転覆しそうになったり、暗礁に乗りあがりそうになったりしましたがチームの結集力の堅さで乗り切ることが出来ました。
それは、チームの誰かが必ず支え、名案を提供したりしたお陰です。
訪問看護師さんが定期的に訪問し、母の一つ一つの心の動きや体の変化など事細かく看て下さいました。母の体調がいい時には、シャワー浴・体の清拭・洗髪・足浴・入浴の介助をしていただき母は大変喜び、看護師さんの訪問日を母ばかりでなく私も心待ちにするようになりました。母の状態が日増しに悪くなるにつれて、二人の看護師さんが日に何回も訪問することもありました。また、先生も往診日ではない日に母を気遣い訪問してくれることもありました。「いつでも連絡をください。いつでも訪問しますよ。」と、夜中に来て頂いたこともありました。本当に心強く感じ、安心しました。
母の最後となった日は、早朝から夜中まで母の専属看護師さんになり手厚い看護をして頂きました。看護師さんは母のケアーだけでなく、家族の心のケアーもして下さいました。不安やストレス等、一緒に背負っていただき私たちの力になり、励みにもなりました。
本当に家族のために献身的によく看てくださいました。
総合病院の医師からは「余命半年」と言うことでしたが、宣告されたよりも二年近く希望の日々を、家族と共に最期まで自宅で過ごすことが出来ました。
息子は毎晩就寝前に、「お婆ちゃん、今日も一日ありがとう。いい夢、見てね。おやすみなさい」を日課にしていました。母の旅立つ日も息子からの言葉に、母はうなずくように永い眠りにつきました。
緩和医師・訪問看護師・ケアマネージャーの方々には、母の命に寄り添い・支え・助けてもらい、安心して母の最期の時を、住み慣れた家で家族と共に看取ることができました。
在宅介護を通して家族の絆が深まり・親から子へ託す思いや願いを受け止め、子から親への感謝の気持ちを伝えることができたことは生涯忘れることは出来ません。
母が旅立って、半年が経とうとしています。母を亡くした悲しみは癒えませんが絶大なる手をさしのべてくださった、すばらしい医療チームとの出会いに感謝するとともに、条件が整えば在宅介護は可能であると感じました。またこの介護に際して多くの方々の、ご支援・ご協力に心よりお礼申し上げます。
中村 泉様の文章、2007年1月26日の山梨日日新聞より。
一部加筆いたしました。