開催報告

大正大学での講義

年間30回の講義を担当しています。学生たちとは、始めは戸惑いながら!?でもだんだんと理解を重ねて交流しています。

巣鴨まで通学するのにも慣れてきました。
学生達にはリアルないのちとの接点があまりありません。
そのあたりが大きな課題です。
いのちは火傷するほど、熱いものだとどう伝えるか。

6月4日にはゲストに旧友の原山さんをお迎えしました。
広く、深い知識を伝えてくださいました。
原山さんは遠藤周作さんからの紹介でした。

原山さんの連載コラム「つたえること・つたわるもの」(ゴム報知新聞NEXT)の中で、授業のことを書いてくださりました。

天と地のエネルギーを巡らせて、再び大地に還す、足芯呼吸法。
先週6月4日、東京・巣鴨の大正大学大学院の授業にゲストスピーカーとして招かれ、甲府市を拠点に活動する在宅ホスピス医・内藤いづみさんが担当する通年講義「人間学特論」の中で、内藤さんからいただいたテーマ「ケアする人をケアする」の基調スピーチ(講義)と呼吸法指導(ミニ演習)を行った。
受講生(大学院生)は、真言宗、天台宗、浄土宗の僧侶、仏教を学ぶ一般人だが、とくに臨床宗教師(僧)を志す院生はその活動の手がかりを求めて「人間学特論A(春学期)・B(秋学期)」を受けている。

近代ホスピス(英国のセント・クリストファー・ホスピス)の創始者、シシリー・ソンダース博士は、終末期を迎えたがん患者の痛みには、①フィジカル(身体的)ペイン、②メンタル(心理的)ペイン、③ソーシャル(社会的)ペイン、④スピリチュアル(霊的)ペイン、この4つの要素がかかわる多面的・複合的な痛みをトータルペイン(全人的苦痛)ととらえた。しかし、私たち(日本語話者)には、カタカナ(英語)表記のペイン(苦痛)ではなく、たとえば、①「からだ」(肉体が感じる)のいたみ、②「こころ」(頭脳で感じる)のいたみ、③「きづな」(人間関係のバックグラウンド)のいたみ、④「たましい」(ハートで感じる)のいたみ、また「(人生)まるごと」(これまでの・いま・これからの)のいたみ、のように、ひらがな(やまとことば)を用いて表現したほうが、もっと理解しやすくなるのではないだろうか。
ちなみに、仏教でとらえる「苦」とは、単なる「苦痛(ペイン)」ではなく、私たちの人生には〈生まれ・老いて・病んで・死ぬ〉のように、「自分の思いどおりにならない痛み」をさす。したがって、緩和ケア病棟や在宅医療の現場では、モルヒネなど鎮痛薬の投与によって、①「からだ」の痛み(疼痛)はかなりコントロールできても、「こころ・きづな・たましい・まるごと」の痛みは、コントロールがむずかしい。

「人生の最終章を、病院で終えるのでなく、わが家で過ごしたい!」 
終末期がん患者とその家族の切なる願いに、まっすぐ向き合い、しっかり支えながら、安らかな死を看取る、在宅ホスピス医のミッションは、24時間、365日待ったなし。がん患者とその家族が抱える人生の痛みは、否応もなく訪問医療チームひとり一人の〈からだ〉と〈こころ〉にのしかかる。ときには、その重圧から、バーンアウト(燃え尽き症候群)する医師、看護師、介護ヘルパーも少なくないという。
同じように、終末期患者のベッドサイドで、「こころ・きづな・たましい・まるごと」の痛みや哀しみ、ときには憎しみや恨みに向き合い、それらすべてを「まるごと」傾聴する臨床宗教師もまた、日ごろから自らの〈からだ〉と〈こころ〉をセルフケアしていないと、バーンアウトしてしまう恐れがある。そこで、臨床宗教師をこころざす僧侶たちにとっても、「ケアする人をケアする」、つまり臨床宗教師(ケアする人)自身をケアする(セルフケア)」方法が必要になってくる。

英語では介護者を「ケアギバー(care giver)」という。ケアは「世話する人」だが、ギバーの動詞形のギブは単なる「与える」ではない。ギブ(give)の語源には、①ラテン語donare=to give(与える)、②ゲルマン語gift=to be given(与えられる)の2種類があって、①はドネーション(donation)、=無償の寄付(私が与える)、②はギフト(gift from heaven)=贈り物(天から授かった)の意味合いがある。同じケアであっても、無償の寄付である「私が与えるケア」は、自力(自分の意志)で行うケアだから、自分の体力、財力が尽きれば「私が与える」ケアはできなくなる。それに対して、他力(天から授かった)の贈り物を、自分の〈からだ〉と〈こころ〉を経由して相手に渡す(パスする)ケアであれば、その源泉は天と地(宇宙、大地、神仏)にあるから、汲めども尽きぬ井戸水のような、無限・交流・循環のケアとなる。

終末期を迎えた患者をすべて「まるごと」傾聴する臨床宗教師は、そのケアを自力(自分の努力)で行っている間は、やがてそのエネルギーは不安定になり、枯渇することもある。しかし、その天(宇宙、神仏)から受けたエネルギーを相手に伝え、相手から還ってくるエネルギー(ときに負のエネルギーもある)は自分のからだを通して大地に戻していく。その大きな循環の中に、私(臨床宗教師)も相手(終末期の患者)も収め摂られているイメージがほしい。そこで、2限の授業『天と地のエネルギーを巡らせる「足芯呼吸法」』では、ドネーション(自分から相手への寄付行為)のケアではなく、ギフト(天から授かった贈り物)としてのケアを行う方法として、かつて西野流呼吸法(創始者は西野皓三さん)の稽古で学んだエクササイズ、「エネルギーの浸透(現代版・軟蘇の法)」と「天遊(足芯呼吸)」のミニ演習を行った。

頭上のバターが溶けていくイメージで行う「エネルギーの浸透」は、臨済宗中興の祖・白隠禅師の「軟蘇(なんそ)の法」をヒントに、合気道、中国拳法の達人でもある西野さんが考案した呼吸法である。
頭の上に乗せたバター(※軟蘇=ウシやヒツジの乳を煮詰めたもの)が、体温で軟らかく溶け出して、まず頭部全体をひたし、次に首、両肩から両腕、胸、腹部の内臓器官へと、全身に浸透していき、さらに腰、両脚を下って、足の裏まで流れていく様子を、瞑目したまま、ゆったりしたイメージを思い浮かべる呼吸法で、天から受けたエネルギーが全身に浸透し、最後は足の裏(足芯)に向かって流れていく。
西野流呼吸法では正座で行うが、今回はイスに浅く腰かけたまま、丹田(下腹部)の前に両手をかざし、風船をふくらますイメージでエネルギーを広げ、圧縮する呼吸を何回か繰り返した。からだが温かくなった、両手のひらが少しビリビリする感覚があった、と述べた院生も何人かいた。

大きな木が根から水分を吸い上げるイメージで行う「天遊(足芯呼吸)」は、足芯(そくしん=足の裏全体)から鼻で細く長く息を吸い上げ、からだ全体に行き渡らせたあと、最後は再び足芯に吐き下ろす呼吸法である。足の裏(足芯)から吸い上げた息を、両脚の内側を通して丹田まで吸い上げる。次に肛門に軽く意識をおいたまま、今度は背骨の中を通して百会(ひゃくえ=頭頂)まで息を吸い上げる。百会で軽く息を止め、吸い上げた息は止めたまま、身体の前面を下ろしていき、その息を丹田に収める。そこから足の裏(足芯)に向かって息を吐き下ろす。「天遊」の演習では、両肩と両膝をゆるめ、手の甲が床につくまで状態を倒す。両手を足の裏から息を吸い上げながら上体を起こし、両手を徐々に百会(頭頂)まで上げていき、吸い上げた息を身体の前面を通して下ろすときに両腕を真横に開く。丹田に収めた息を足芯に向かって吐きながら、両手も下ろして、最初の姿勢に戻る。天と地のエネルギーを循環させる呼吸法である。

「釈迦力(しゃかりき)」という言葉がある。「無我夢中でやると、思わぬ力が出てくる」というほどの意味である。これを「自力・他力」の観点でとらえると、自分の力で精いっぱい頑張る(自力)ことではなく、無我夢中(われを忘れる)となった、自分の〈からだ〉と〈こころ〉を経由して、お釈迦さまの力(絶対他力)がはたらく、と考えることができるのではないだろうか。
次回のコラムでは、3限の授業で行った『「く」のからだを、「あ」のからだに開く』について報告する。

出版ジャーナリスト 原山建郎