ホスピス記事

シシリー・ソンダースとホスピス

日本では緩和ケア病棟として、ホスピスの種は広がりました。
10年以上前に私が感じたように「ホスピス」運動の深い歴史の流れと意味を、シシリー・ソンダース女史の人生と共に振り返って頂ければ嬉しいです。
看護師さん向けに書いたものです。


ホスピスケアに興味を持ち多少なりともそれにふれた者ならば、シシリー・ソンダース女史の名前と彼女の創設した「ホスピスの中のホスピス」、セント・クリストファー・ホスピスの存在を知らないはずはない。
25年前になるが、私自身も研修医として東京で働いていた頃、末期がん患者の疼痛緩和に悩み、乏しい文献を探し、彼女の名前とプロンプトン・カクテル(モルヒネとコカインのシロップ剤)の処方を頭に刻み込んだ思い出がある。
ホスピスケアの方向にライフテーマを見出し、イギリスに生活するようになった時もセント・クリストファー・ホスピスを訪ねる日を夢みた。シシリー・ソンダースと午前中話し合い、午後は研修という予約席をある日やっと手に入れた。ソンダース女史は当時すでにエリザベス女王からデイムという貴族の称号を得て、イギリスではフローレンス・ナイチンゲール、エリザベス・フライ、エメリア・パンクハーストらと並び、社会の変革に貢献した高名な女性としての地位を上り詰めていた。
世界中から彼女を心の師と仰ぐ者たちがセント・クリストファー・ホスピスに集まってきていた。当日の私もかなり緊張していた。時間になるとソンダース女史自ら大柄な体で大きな腕を広げ、迎えに出て下さった。まさしく、本物の“ホスピタリティ”を感じた。一同(といっても生徒は3名のみ)は彼女の書斎に招き入れられ“カップ・オブ・ティー?”で歓迎を受けると、何だかいっぺんにそれまでの緊張が解け、親戚の家に遊びに来たようなリラックス感で授業を受けることができた。
“死の顔を変えた女性”と呼ばれ、生きながらすでに伝説の人となった目の前の女性は、私たちのどんな質問にも熱心に耳を傾け、やさしく穏やかな笑顔で答えて下さった。この女性の出現で、この30年間、世界中のがん患者が恩恵を受けたといわれる。日本でもホスピスケアの関心は高まり、緩和ケア病棟(PCU)も確実に増えつつある。しかし、日本人の常で簡単にどんな末期医療をも“ホスピスケア”と呼んでいないだろうか?私自身は日本社会の中で軽く使われる“ホスピス”という言葉に最近抵抗を感じてならない。
イギリス人の夫は特有のユーモアで
「アメリカンコーヒーと言ってもアメリカ人には通じないように、日本人の言うホスピスはイギリスで生まれたホスピスとちょっと違うようだね。」
と言っている。そうなのだろうか?何かが欠けている?それは多分、ホスピスの理念、いのちの哲学の周辺が日本ではきちんと踏襲されずに始まってしまったせいではないだろうか?
日本のホスピスに関する資料を調べると、ホスピスの歴史は巡礼者の救護所から始まり、間は省略され、シシリー・ソンダースの事業につながっていることが多い。私の知識だって、かつてはその位であった。当日、同席した南アフリカから来たナースは私にこう言った。
「ソンダースさんはすばらしいわ。ここに来て良かった。これから私はアイルランドのダブリンに行くのよ。ホスピスのルーツへ。」
ホスピスのルーツ?そこに私が辿り着くには、さらに数年以上がかかることになる。読者の皆さんとは、シシリー・ソンダースの道のりをしばらくご一緒に辿ってみたい。
シシリーは1918年6月22日に、豪放磊落で成功したビジネスマンの父と神経質で現実に適応できなかった母の元に生まれる。終生、父と母は不仲であった。後に、別居する。家は裕福で、十分な教育を受け、彼女は頭も良く、体も大きくて目立ってはいたが、内向的な部分も大きかったらしい。オックスフォード大学に入学するが、1年後に大戦が始まり、戦争の悲惨さを目の当たりにした。
彼女は学生時代に看護の世界に入りたかったのを両親の反対で断念していた。再びその気持ちが燃え上がり、イギリス赤十字の試験を受け、ナイチンゲール看護学校に入学した。3年間研修を続けたが、最終トレーニングの頃になると持病の背部痛が悪化し、看護婦としての仕事は無理だと診断を受けてしまう。悩んだシシリーは、それでも常に患者と共にいられる職業としてアルマナー(現代での医療ソーシャルワーカー)を目指すことを決意する。
1947年、猛烈な勉強の結果、29歳でセント・トマス病院に初めて職を得た。また、1945年夏、キリスト教の一派である福音派に回心する。その時の体験は、マザー・テレサが神と出会い、カルカッタに向かうようになった出来事と相似している。
シシリーは、初めて受け持った末期患者の一人でポーランド人のデビット・タマスという男性と恋に落ちる。死にゆく人がどうやったら安らぎを覚えられるかということをふたりで熱心に心から話し合い、シシリーの人生に大きな意味を与えた。彼は、500ポンドを遺し、セント・クリストファー・ホスピスの礎石となった。彼の死後、“死にゆく人のために仕事がしたい”と彼女は固く決意した。
聖ルカという“死にゆく人のための施設”で夜間のボランティア婦長として定期的に働くようになった。そこはホームであり、病院ではない。設立者のハワード・バレット博士の哲学はシシリーに大きな影響を与える。
1909年、バレット博士は報告書でこう言っている。
「入院患者を症例のひとつなどと呼びはしない。それぞれの人が特徴があり、人生の歴史を持つ宇宙である。個の尊厳を絶対的なものとして大切にすること・・・」
シシリーはまた、聖ルカでの薬物の使い方に驚かされた。シシリーがそれまでの実習でみたものは、がん患者は治癒し得ない状態であることがわかっているのに、無益な手術や治療が続けられていることだった。または、麻薬でウトウトと眠らされていた。しかし、聖ルカでははっきりした意識を持って、痛みから解放され、最期まで過ごす人が多かった。その秘密は痛みが来る前に定期的に経口で鎮痛薬の医療用麻薬(モルヒネ)を与える方法にあった。患者が痛みに耐えられなくなってからようやく薬を与える方法と大きな違いがあった。聖ルカでは、1935年からこの方法がとられていたが、外には知られていなかった。
1年後、彼女は上司から言われた。
「医学校に行って、勉強したまえ。末期患者を笑顔にしてくれ。末期患者を見捨てているのは、誰だか分かっただろう?医者なんだ。」
シシリー・ソンダースが33歳の時である。1957年4月(39歳)、ついに彼女は医師の資格を与えられた。
シシリーは痛みの研究―末期がん患者の痛みを専門にしているのは彼女だけだった―の傍ら、ロンドン郊外ハックニーにある聖ジョゼフ・ホスピスで働くことになる。聖ジョゼフは1905年アイルランドの“Sister of Charity(慈愛の姉妹会)”によって創設された。ダブリン市でマザー・メアリー・エイケンヘッドという女性の働きにより聖母ホスピスがホームの形で作られたことが原型となっている。その16年後に聖ジョゼフが作られた。つまり、近代ホスピスのルーツはアイルランドのダブリンにあるという意味である。
シシリーは、聖ルカでの方法を聖ジョゼフでの末期がん患者に導入した。医療用麻薬を経口で定期的に与えるという方法である。実践をもって、麻薬への耐性と依存への恐怖を取り払っていった。彼女の看護からの経験から、看護婦にできるだけ責任のある仕事をさせるようにした。ある程度の裁量権を痛みのコントロールの場でも与えた。聖ジョゼフの看護者たちは、患者の痛みを昏睡状態に陥らせることなしに和らげることができて驚いた。シシリーは記録を保存するように努め、その数は1000人以上にも上り、次第にその働きが外に知られるようになっていった。この実践が後にWHO(世界保健機構)でのがん疼痛緩和への戦略へと発展し世界中のがん患者の痛みの緩和に貢献することになる。
バイオエシックス(生命倫理)を日本に紹介し、新しいいのちの時代の到来を私たちに告げたジャーナリスト、岡村昭彦はその最後の未完の仕事「ホスピスへの遠い道」の中でその国際的視野で多くの資料を私たちに提示してくれた。1962年に、シシリー・ソンダースがダブリンのメアリー・エイケンヘッド看護学校へ出した礼状もそのひとつである。知られざる歴史の記録である。その一部を拾い上げてみたい。
「このホスピスには年間400~500名の患者が収容されます。そのうち3ヶ月以上私たちと共に暮らす人々は10%にすぎません。しかし、患者は誠に落ち着いていて、楽しそうです。誰も痛みがあるように見えません。ここセント・ジョゼフで見えたと私が信ずるものは何なのでしょう。
第一には、ここで働く全ての人間が死の事実を受け入れ、それに対して正しい態度で臨んでいることだと思います。死にまつわる不快な事柄や痛みが正面から見つめられ和らげられているのです。私たちは死の床にある人々自身から死について教えられ生命の意味を学びます。・・・・薬を用いての働きかけは、末期患者を動作の敏活な状態に保ち究極の事態に対処するのに自分流の方法でできるように痛みを和らげる一助になるように計画されています。
・・・・次に私はコミュニティの生活について分かったと思っています。聖ジョゼフ・ホスピスという家族の中に引きつけられてきました。・・・・ホスピスのケアはひとつのコミュニティの働きですから、『どうすれば、私がこの患者を理解し、私がこの人を助けられるか』という思いに囚われる危険性や、どうしても自意識が強くなる欠点から救われます。それよりも聖ジョゼフ・ホスピスとこの人との出会いであるということを常に思います。どんな宗教の患者でも新しく入ってくる患者はシスターのひとりから『ようこそ、○○さん。』と挨拶を受けます。別の病院というよりは、むしろ家庭となるであろうひとつの場の中へ喜んで受け入れられるのです。なぜなら、ここは本当にシスターの家庭でもあるからです。
患者はひとりの人間として、すなわち肉体はもちろん魂や心にも真に関心を寄せてくれる人によって迎えられます。・・・・聖ジョゼフ・ホスピスはここに来る人々に自信を持って応じています。私たちは自分たちの処置に確信を持っていますが、それより重要なことは患者自身を信頼しているということです。・・・・ホスピスとは巡礼者が一時足を休める場所です。多くにとってそれは最後の旅路です。もし私たちが彼らの肉体や精神の苦痛を和らげ彼らが心安らかになるのを手助けできるとすれば、その本当の働きは決して私たちのものではなく神のものであることをよく理解できるでしょう。・・・・」
この礼状には彼女が聖ジョゼフで学んだ本質が触れられており、1967年に設立されるセント・クリストファー・ホスピスの原型が見事に描かれている。その後のホスピス・ムーブメントの発展は皆様のご存知の通りである。現在、イギリスで400、北米では2000以上のホスピスが作られている。しかし、痛みのコントロールと、症状の緩和、家族へのサポートはどこでも実践することができることで、特別な施設を必要としない。地域のニーズと、患者の希望にポイントが置かれなければならない。
歴史は突然には始まらない。これは岡村昭彦の言葉である。臓器移植に始まる最先端医療の芽生えは、ワトソンとクリック博士がDNAの二重構造を明らかにし、ノーベル賞を受賞した1962年に始まると岡村は言う。死の臨床の芽生えもこうしてまた同じ60年代であり、「死ぬ瞬間」で世界中を驚かせたエリザベス・キュブラーロス博士の登場もまた、60年代だった。ちなみに、いのちと平和に関する世界の主要な3つの賞がどれも女性に与えられている。ノーベル平和賞はマザー・テレサに、ティヤール・ド・シャルダン賞はエリザベス・キュブラーロスに、テンプルトン賞はシシリー・ソンダースにである。シシリーは62歳に時に3人目の恋人マリアン(ポーランド人の画家)と結婚する。知り合って17年目だった。幸せな結婚生活を送り、彼をセント・クリストファー・ホスピスで看取った。
こうして、20世紀の最後に私たちは、いのちの新しい時代への課題のひとつの回答を求められている。勇気と愛を持って歩んできた大先輩たちを思い起こし、これからの私たちの生き方について真剣に考えてみたい。


*10年以上前に看護雑誌掲載したものを加筆、改訂
参考書籍
シャーリー・ドゥプレイ  シシリー・ソンダース / 日本看護協会
ホスピスへの遠い道  岡村昭彦 / 筑摩書店
「幸せに死ぬ」ということ  矢沢 慧 / 洋泉社
あした野原に出てみよう  内藤いづみ / オフィス エム
参考文献
岡村昭彦 対談 ホスピスを考える / 看護教育 23(6)(7),351-373,415-429,1982
内藤いづみ 患者の物語に参加するということ / 看護学雑誌62巻第7号1998