ホスピス記事

遠藤先生の繋いで下さった鈴木秀子シスターとのご縁

周作先生のこと(あした野原にででみようから)
 お体の具合が悪いことは承知していました。友人二人と特別にお見舞を許されてお会いしたときは、少なからずショックも受けました。

 しかし、あの周作先生がお亡くなりになったというニュースを聞いても、にわかには信じられませんでした。いつもの調子で(先生は、まじめ人間をかつぐことが大好きだったので)「ウソだよー」と、笑いながら登場してこられるような気がしてなりませんでした。

 その一ヶ月後、聖パウロ女子修道院で、縁のある方々だけのミサに参列させていただきました。黒い布におおわれた周作先生のお骨を目にしたとき、はじめて昇天されたことの事実をはっきりとつきつけられたのです。涙が止まりませんでした。周作先生と四十年以上の親交のあった神父さまのお話と、修道女たちの讃美歌を聴きながら、そこにいる誰もが静かに涙を流しました。

 亡くなってから、ますますその文学者としての足跡の偉大さが高まっている周作さんと私が、いつどうして出会ったのかを、よく聞かれることがあります。
 東京で研修医をしていたころの私は、現代医療への疑問や不満と自分の進むべき方向といったことに悩んでいました。その頃、周作先生は「心あったかな病院をつくる運動」というキャンペーンを始められていました。

 先生は結核療養所での長く苦しい体験をお持ちなので、患者の心理を身をもって理解されていました。それに患者をわざと害しようなどと思っている医者などいるはずがない、ということも。だから、医療の中で傷ついたり、医者を恨んだり、憎しみをいだいて生きる患者さんや家族のために、何かをしたいとお考えだったようです。
〈医療者と患者をつなぐ橋〉、そんなキャンペーンだったと思います。いま思うと、それは日本文化の土壌にキリスト教という外来種がどう育つのかという、先生の長年の文学的テーマとも重なっていたとも思います。
〈権利〉〈義務〉〈主張〉という西洋的で個人的なきびしい関係のあり方よりは、日本文化の美を尊重した、あたたかですべてを包みこむ母性的な関係の方が望ましいことなのだ、と私は理解しました。
 そのときの私が、どんなことを書いたのかは忘れてしまいましたが、お便りをお出しすると、すぐに先生から「会いましょう」とお返事をいただきました。

 大文学者とお会いするという緊張感もなく、私はひょいひょいと出かけていき、その後のご縁が続いたというわけです。周作先生はうら若き女性(私も当時は二十四歳)が、何人もの末期患者を受け持つということが、かわいそうだと思ったらしく、日野原重明さん(現聖路加病院理事長)にその旨を聴いて下さいました。
「そしたらね、日野原さんは『一人前の医者になるための試練です』って、すました顔だった。でも、辛いことだねえ」

 当時の私はよっぽど辛い顔をしていたのでしょう。それは、大病院でのターミナル・ケアが延命至上主義、積極的治療優先、入院対応のみで、家族とともにひとつのいのちを看取る、という状況からかけ離れていることにも起因していたと思います。私がそれを理解し解決するまでには、十五年ほどの旅が必要としました。

「私の友人が死にゆくの枕元に座り、静かにお話するんだよ。死んだあともこわくない。私たちも必ずいくから。そう言うらしい。あなたも言える?」

 いつか、周作先生からたずねられたことがあります。まだまだ未熟な医師でしかなかった私には、とてもそんな話を患者さんにはできませんでした。それどころか、当時の内科では、ガン告知はほとんどされていなく、いつもおそるおそる患者さんの側にいくのがやっとのことでした。末期の患者さんたちは不安と恐怖の中で、(まさか死ぬなんて)と叫ぶこともできず亡くなっていきました。

昨年になり、先生の友人という方が鈴木秀子シスターであることがわかりました。シスターの著書『死にゆく者たちからの言葉』(文芸春秋)は、大きな感動と驚きをもって全国で読まれています。

 医学部では身体のことしか教えてくれず、私は人の心というものに大きな関心をもっていました。人間には心と身体と、そして霊性(スピリチュアリティー)というものがあります。
それを教えて下さったのが周作先生であり、それを包みこむ努力をしているところがホスピスなのだと、私はいま確信しています。

 やっぱり周作先生は偉大な方です。とはいえ、いつも先生のゲームにひっかかって、笑われている場面の方がどうも懐かしく生き生きと思い出してしまいます。