開催報告 第10回ホスピス学校
記念すべき第十回ホスピス学校 テーマはいのちを愛でる。
生命誌研究所の代表として、繋がるいのちの不思議といのちの宇宙を科学者としての冷静でそして暖かなメッセージを中村桂子先生からいただいた。
会場は県内外から参加してくださった220名の方々で埋めつさくされた。
遠くは北海道積丹半島から。淡路島から。岐阜から、岩手から。
ずっと一緒にいのちの学びを続けて来た仲間たちのチーム力は素晴らしかった。
一生懸命企画、運営してくれた。
改めて感謝の思いでいっぱいになった。
中村先生の話しを聴いて、これからも草の根で頑張って生き抜こう!と決心した。
人は謙虚さを取り戻し、いのちの世界での一員として真摯に活動してもらいたい。
それが幸せに繋がる道だと思える。
小林啓子さんの歌声の響きに包まれ、暖かくて幸せな気持ちで帰路についた。
参加者からの感想
心があらわれるような講演会でした。命の愛しさ、命の儚さを感じました。
白和えのお話も、とても心にしみました。
そして、胡麻をすって作る…と中村桂子先生が言われたので、佐藤初女さんも胡麻をする話をされてたなと思い、さすが10回記念の回だけに一回目と繋がる。
と考えていました。
その後、内藤いづみ先生のお話に佐藤初女さんが出て来られてまたびっくり!
いのちを愛でるのテーマの通り、様々ないのちへの讃歌のような授業でした。
素敵な会に参加させていただき、ありがとうございました。
昨日は、久しぶりに初任地の山梨に行って、ホスピス医の内藤いづみ先生の「ホスピス学校」を聴いてきました。日本を代表する生命史研究者である中村桂子さんの講演がメーン。内藤先生との対談のほか、元「フォークの女王」で、長いブランクのあと故・永六輔さんの助言で復帰した小林啓子さんの弾き語りもあって、とても充実した時間でした。
いのち、とそれから死について、みんなで考えてみようという「ホスピス学校」は、2011年から始めて、今回で10回目になるそうです。医師・看護師といった専門職だけでなく、親を看取った人たち、これから看取るかもしれないと考える人たちが、同じ視線に立って考える会。看取りというのは近しい人が命の終わりを迎えることなので、苦しく、悲しいことに違いありません。その困難さを、たぶん参加した皆さんが共有しているから、会場全体に内藤先生を中心とした「仲間意識」が感じられました。
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中村先生の講演、素晴らしかったです。もう80歳になられるんですね。それなのに、先端のDNAの話をわかりやすく、かみ砕いて軽やかに話される。いちばんのテーマは「いのちはみんな…一緒」と私なりに理解しました。
ヒトは姿かたちは違っても、元をたどればアフリカの人に必ず行き着く。もっと視野を広げて、動物も植物も虫も生物は元は一緒なのだと。私が、このひの収穫だと思ったのは、内藤先生の対談の中で手出来た「チョウのドラミングの話」でした。
チョウの雌は、自分の生んだ卵から孵った幼虫が食べられる草を見分けなければならいない。モンシロチョウはキャベツとか、アゲハはかんきつ類とか。
一見、みんな緑色。だから、何をするかと、飛んできて前肢の先の部分で葉を叩く(ドラミング)。そして、出てきた汁を感じて(すみません、このあたりの表現は私に知識がないもので、あいまいです)判断する。
ところが、驚くことに、ヒトの舌にある味を感じる「味蕾」を分析すると、細胞学的には「まったく同じ」ものだそうです。だから、「創造主はいきものを別々につくるのではなくて、同じものを使って使いまわししている」(はい、これも、私の感覚でいった要約です)のだそうです。すごくありませんか。チョウのメスの感覚器とヒトの舌の味蕾が同じなんて。
そこから、中村先生の話は「障害」の話に移っていきます。「正常と障害」の違いは何か。違いがあるのか、と。正常と障害の違いなど、少なくとも生物学的にはない。ヒトのゲノムは32億といわれているそうですが、「完璧なDNAを持っている人はいない、全くいない」そうです。
すべてのヒトは、必ず配列のどこかに、何かしらの「欠陥」を持っている。いま「障害を持っている」といわれている人は、「たまたま目に見える部分にそれが出ているだけ」ということです。
だから、「健常」と「障害」という分け方は生物学的にはなく、したがって、先生は「福祉」という、健常者が障害者を支えるという考え方も自分は持たないと言っていました。目からウロコでした。そうか、そうだったんだ。
生物は多様なんですね。ちょっとした違いはあるし、それは違いでしかない。だから、と先生はちょっとの違いを言い募ってやる「ヘイトスピーチ」など意味はまったくないと言います。
あぁ、生命史という大きな流れの中で見れば、私たちの社会で起きていることなど他愛もないことに思えてきます。
まだまだ、たくさんの貴重な言葉、「おいしい」言葉を受け取ったのですが、どうせ、ここで長々書いても、誰にも見ていただけないでしょうから、このくらいにしておきます。最後は、内藤先生の話の中で心に残った言葉を。
先生は「学校」の最後に、こう言いました。
「一対一でなければ、人は向き合えない」
ああすればいい、こうしたほうがうまくいく。評論家は、そしてメディアもあれこれ言いますが、でも、それは第三者として高いところからの発言の場合が多い。だけど、それは本当に当事者たちの役に立つのか。
困難に向き合う人たちのためになるのか、と先生は言っている気がしました。あるいは、「現場に立て」と。現場で、困っている人たちのことを肌で感じて、抱きしめて、一緒に泣かないと、一対一で、半分当事者にならないと、本当に「向き合えない」のだと。
私は、記者という職業の自戒を込めて、先生の言葉をそう理解しました。
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内藤いづみ先生の「ホスピス学校」。昨日の中村桂子さんの話で、もうひとつ、書いておきたかったことを思い出しました。そういえば、前項で先生の研究テーマを「生命史」と書きましたが、中村先生は「生命誌」と表記していますね。失礼しました。
中村先生の生命誌研究所では、毎年、今年の漢字というのを決めるそうなんですが、先生は今年は「和」に決めたそうです。和は「やわらぐ」「なごむ」、それから「のどまる」なんて読み方もあるそうですが、その中で「あえる」という意味に興味を持ったそうです。「白和え」の「あえる」ですね。
私は料理は苦手なのですが、「白和え」はわかります。豆腐の水気を取って、裏漉ししてすりつぶしたゴマと丁寧に合わせていくのですよね。中村先生は「これは日本料理の傑作」だといいます。対するのは「サラダ」。
サラダもおいしいけれど、先生が言うには、「あれは、嫌いぎったらキュウリを除けられる。そこがあえ物との違い」と言います。
もちろん、あえ物だって苦労すれば、コンニャクだってほうれん草だって除けられますけど、メーンのゴマと豆腐は、そこに存在することは舌がわか…っているのに、分けられない、抱合している、それが、先生のいう「日本料理、すなわち日本文化の傑作、神髄」なのかもしれません。
日本は、決して、放り出さない、排除しない。それは農耕民族のDNAに刻み込まれた自然を受動する姿勢の表れなのかもしれません。チャチャを入れようとすれば、その掟に入ろうとしない者は徹底的に排除されるじゃないかと批判できますが、ここでは、その「良い面」だけをみてください。
日本人は、基本的には、いろんな多様性を受け入れる。受け入れたあとに、そのもともとの「味」を残そうとする。そういう民族。だからこその「和」の心、なのでしょう。
このことを書いておきたかったのです。いい話でしょう?
「ホスピス学校」が終わったあとは、内藤先生を囲んで近くの居酒屋で懇親会をしました。中村先生は帰りましたけど。山梨でやっているからといって、参加者は山梨県内からだけじゃないんです。北海道の方もいたし、岩手の方もほうやのおやつを持ってきた(それにしても、内藤先生に会うときに、なんでみんな自分とこの特産物を持ってくるのでしょう……)。
関東は当たり前で、岐阜の人たちもいた。そういえば、昨年の「死の臨床研究会」で会った懐かしい顔もたくさん。女性が圧倒的に多い。女子会にぽつんと迷い込んだイヌみたいな感じで、私、小さくなっておりました。でも、とても楽しい集まりでした。