ターミナルケア・最期の瞬間まで支える
ある女性患者さんの最期の日々に関わった。かなり危篤に近くなってからの家族による在宅ケアの依頼だったので、私も10日ほどの余命に、緊張して関わらせて頂いた。
本人は頷くか、短い応答しかできない重い状態だったので、何が本人にとって一番大切か、集中して考えた。
どうも、口に出せない苦しさがあるのではないか、と私には感じられた。激痛ではないが、この世からあの世へ旅立つ時の身体の苦しさ、という領域。
痛みのアセスメントもなく、漫然と貼られる前医からの合成麻薬鎮痛薬ではなく、モルヒネの座薬に変更した方がよさそうだと思われた。これには勇気がいる。知り合って間もないし、いのちの終わりの段階で、どの位調整の時間が残されているかわからない。しかし、家族の了解を得て変更することにした。
密かに心の中で「モルヒネの神様、どうぞお力を貸して下さい」と祈る思いと共に実行。2、3日かけて何とか上手くいった。予想より安らかな最期の日々が伸びたと思う。家族にも別れの時が与えられた。
ターミナル期にいる患者さんにもこうして必ず何らかの支援ができる。今の末期医療現場では、医療者が安易に患者さんを眠らせることもあり(鎮静)、私は問題があると思っている。
その患者さんは、家族に囲まれ平和な看取りを受けて旅立った。
ひとつの役目を終えて、友人のご主人のお見舞いに行くことにした。何だか、この日に行かないと、もう会えない気がした。(在宅ホスピス医の第六感か)
少しプライバシーを考慮して感じたことを綴ってみる。
東京のそばの街に住む友人夫婦。実は、これまでご主人とは会ったことがない。3ヶ月前に手遅れのがんが見つかった。小康状態になったので、病院から3週間ほど前に家に戻って来た。役所の紹介で、若い医師グループの在宅ケアに任せることにしたという。家では熱も出たが、まあまあ落ち着いて過ごしていたようだ。
その日、訪ねてみると、もう応答はできず、血圧は50台。ここから回復することは難しい。どの位ご本人が頑張るかわからないけれど、この状態は昏睡に近く、危篤。今夜を越すかどうか。
家族はなぜか片付けと掃除をしていた。
介護ベッドの搬入を決めたのだそうだ。その確認に訪問看護師も朝来て、その時は血圧60だったという。それが何を意味するか、家族にもわかるようには伝えていなかった。おまけに明日、定期計画の訪問入浴もあると告げられていた。
「変だね」と私は思わず口にした。
現状を伝え、本人と家族にとって、今、何が大切か考えて、看取りのお手伝いとアドバイスをすることが訪問看護師の役目ではないだろうか?
今回のような対応は、まるで収益のみを考えるケアシステムの執行者みたいだ。
「本人の大好きな部屋で、大好きなベッドで大丈夫。もう残された時間は少ない」とわかった家族は、ベッドと入浴のキャンセルの電話をかけた。今が看取りの時と理解して家族の気持ちが落ち着いた。ベッドを囲んで平和なティータイム。残る人たちはこうして、食べて笑って、泣いて、暮らしの中で生きていく。思い出と共に。
窓からは、木の葉がサワサワと初夏の風に揺れるのが見えた。
先日の山奥での末期患者さんとの食事会も、こんな風に穏やかで楽しかったな~と思い出した。
いのちの支え方により、看取りの時はこんな豊かな祝祭の時にもなる。
看取りの時は、本人が穏やかで痛みなく落ち着いているように、私たちは医療的に最期まで観察と気配りを続ける。そして、別れの時をむかえている家族にこそ、精神的に必要な最大のサポートをする。
今回のチームにはその両方の気配りが感じられなかった。別のことには十分気配りしているようだったが。(笑)
医療哲学の実践と医療経営の実践は同じ土俵では戦えないし、もし、勝負したら勝ち負けは明らかだろう。
『心を向けてほしかった』
終末期に至った多くのがん患者が、自分のニーズを語った言葉。
それを何とかするために世界の終末期医療の姿を変えようと尽力したシシリーソンダース女史がテキストに1991年記している。
最期の瞬間まで、私たちが患者さんにできることはたくさんある。見捨ててはいけない、と。
もし、寄り添う心が医療者から消えてしまったなら、何と悲しい現場になるのか、私も想像したくない。いのちに寄り添うことの中身を学ぶ医療者が増えてほしい。
私からも申し上げたい。
皆さんがもし、いのちに寄り添うケアをしてくれる人たちと出会えたのなら、それはとても幸運なこと。100点満点でなくても、合格点なら、どうぞ、その人たちに感謝を捧げてもらいたい。サポートを受けていのちに安心して向かい合うことができるのだから。
2016年4月 内藤いづみ