最期のときを家族と ふるさとに帰る
池田正さん(59)=仮名=は豪放磊落な性格だった。何よりお酒が大好きで、肝臓の障害が出てからも、たしなむことはやめなかったようだ。「治療を終了して、ふるさとに帰る」と決めてからは、不安ももらさず、ふるさとの生活をマイペースで楽しんだ。
そんな池田さんの在宅ケアを引き受け、近くに住む看護師も頻繁に顔を出すようになった。病状が進行し、2カ月ほどでついに肝不全で昏睡状態になり、痛みもなく、穏やかにスヤスヤと眠り続けた。
危篤だと告げると、家族は覚悟を決め、不眠不休の看取りが始まった。5日目、娘のとも子さん=仮名=から電話が入った。
「先生!父が目を覚ましました」 「まさか!」。
私は慌てて駆け付けた。確かに意識が戻りつつあった。「お酒の好きな父に、この世の名残と、ワインを口に含ませたら、ゴクンと飲んだんです。それから少しずつ目を覚ましました」
ワインの力か家族の祈りの力かは分からない。池田さんはその後、起き上がるまでに回復した。何度も乾杯を重ね、にぎやかに過ごした10日後、池田さんは「今日の昼はそばにしてくれ」と言って眠りにつき、永遠の旅に出た。在宅ケアでの最期の過ごし方は本当に人それぞれだ。
それから10年後の平成18年、患者の権利を守り、がんケアの質を高める「がん対策基本法」ができた。がんのどの段階でも十分な緩和ケアが受けられ、積極的治療の選択肢も広がることが期待されている。
しかし、現実には、地域格差が大きい。池田さんを看取った12年前と、地域医療の状況はあまり変わっていないように見える。お母さんと一緒に池田さんを看護した娘のとも子さんは当時を思いだし、こんな感想をもらした。「私と母は、父に『もう治らない』と、告知をしたときが一番つらかった。あとは先生方の助けを得て、どこで積極治療を終了し、人生を生き切る緩和ケアに切り替えるか、父が決めるのを待つだけでした。今も昔も、信頼できる医者と知り合えるかが運命の分かれ目ですね」
その綬和ケアも、24時間体制の在宅ケア医が飛躍的に増えているわけではないから、地域によっては少ない在宅ケア医に重い責任が集中しているように見える。そもそも、がん対策以前に「医師不足による診療科閉鎖、救急車が足りない」など、基本的な医療への不安の声が、聞こえてくる。
2008年12月10日 産経新聞より抜粋