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最期のときを家族と この大根は最高だよ

 エリザベス・キュプラー・ロス博士は約40年前、著書『死ぬ瞬間』で、末期がんの患者たちの心理過程を明らかにした。
 告知されると、まず頭の中が真っ白になるほどショックを受け、「事実を否定する」。事実だと分かると、「猛烈な怒り」がわいてくる。やがて「取引」といわれる心理状態になる。たとえば「神様、どうか子供の入学式まで生かしてください」など。


それも無理と分かると「絶望(鬱)」する。このつらさを経て、「受け入れ」に近づく。受容には、この5段階を中途半端でなく味わい尽くすことが必要だ、とロスは説いている。
 池田正さん(59)=仮名=にも当初、否定と怒りがあった。
「あと1年で定年になり」ふるさとで悠々自適の暮らしを計画していたのに、なぜおれが今、手遅れのがんになるのだ。まじめに一生懸命働いたのに、なぜこんな目に遭うのだ!」と。
傍にはひとり娘と妻がいた。悩んで、そして心が決まった。「ふるさとの新しい家に1日でも長く住みたい。ふるさとに帰る」
 そのふるさとは、近くに総合病院もなく、往診の依頼を受けた私も車で50分もかかる所で、正直、引き受ける自信がなかった。しかし、初往診の日、池田さんは新しい家の前の畑に立ち、笑顔で私たちを待っていてくれた。腹水がたまっておなかは大きくなっていた。
 「先生、ようこそ。ここからはぐるりと富士山、八ヶ岳が見える絶景でしょう?今月、この畑に大根の種をまいたんだ。これが育つまで、おれはもちますか?」
 見当がつかず、私は言葉に詰まった。幸い、側に住む看護師と、緊急時に対応してくれる病院の協力も得られた。
池田さんの新生活はそろりそろりとスタートした。吐血したり肝不全になったりしたが、危機を乗り超え、娘さんと奥さんの支えで何とか家にいることができた。横になり、見える山々。
 「極楽!極楽!」そんな声が在診の度に聞こえた。大根は目の前の畑ですくすくと育ちやがて取り入れの時を迎えた。「先生、うまいよ。お土産に持っていって」自分で抜いた大根をたくさん持たせてくれた。大根と引き換えに、往診代をおまけしたくなる気持ちを抑えて(物納は禁止されている)帰路に着いた。
 大根の季節になると思いだす。あれからもう12年もたったのか、と。
2008年12月3日 産経新聞より抜粋