最期のときを家族と いのちの輪郭
数年前からいくつかの大学の教養学部で、若者に「死生学」を講義している。
「死」という字が入っているだけで、暗く怖いイメージを抱かれがちだが、彼らは私の子供と同世代。何となく相手の心切愁内が分かる気がして、私もおせっかいなおばさん口調になる。
「〝死″は、命の一部だと思う」。そう言うと、教室は一瞬シーンとなった。死は別世界のことと思っていたのかもしれない。
「死んでいくにも」自分の力が必要。生まれたり、産むにも力が必要なのと同じこと。人任せにはできないのよ。誕生と死はコインの裏表。その間に人生がはさまっている、と想像してみて。赤ちゃんを生むときには助産婦さんが助けてくれる。死ぬときには、私たちのような助死師(?)、終末期医療の専門家がいる」
おっと、これは飛ばしすぎた。安楽死を思い浮かべたのか、生徒が不安そうな顔をした今の日本では多くの人が命の誕生も、亡くなる過程も直接にかかわらない。約50年前には8割以上の人は家で亡くなっていたのに」今や逆転して8割近くが、病院などの施設で亡くなる。
私は、こう聞いた。「生きるためには何が必要?」。午後一番、満員の講義室は眠くなりそうな気配。私は命の輪郭がぼやけたような、存在感の薄い最近の若者が気になって仕方がない。生徒たちは「身体が生存するには、呼吸する、食物や水を摂取する、眠ることが基本条件と答えた。生命体として生きる条件を備えたらやっと人間として五感を使って外界の刺激を受け、他者とかかわる能力と知性が育ってくるはず。
「知性って何?」とまた聞いた。沈黙が教室を支配する。やっと誰かが答えた。「他者の悲しみや苦しみに共感できること」
「そうだね。そのためには、現実の世界で実際に心をもんで、泣いたり、笑ったり、苦しむ体験が必要。小さいころに十分、友だちと自然の中で生身の体でぶつかってきたかな?あなたたちは今、他人の感情や存在に直接向かい合うことを恐れていない?勉強のほかに、自分の魂を揺るがす音楽や文学や映画にも触れてちょうだい!」授業が終わるころ、21世紀を託す若者達の輪郭が少しくっきりしてきたように感じた。
2008年11月5日 産経新聞から抜粋