往復書簡(米沢慧様)Vol.2 往
内藤いづみさま、第1信から、ホスピス医としての覚悟ともいえる“こえ”を聴くことができ率直にうれしく、また、こころをひらいて語り合える喜びを久々に味わっています。
一方で10年という時を一気に埋めようとしていますよね。その証拠にわたしに対する盛りだくさんの注文をいただきました(笑い)。
○その1 いま、岡村昭彦ブーム? という背景について。
8月には信州・小布施での夏期合宿(ファミリイ・トライアングルの会、二泊三日、於・NPOしなのぐらし)を恒例にしています。関東界隈を中心に主宰しているアキヒコ・ゼミ、ヨネザワ・ゼミのメンバーが年に一度集う会で11年目をむかえ、30人ほどの参加でした。
今年はホスピス病棟がある新生病院の礼拝堂を会場につごう3本9時間の連続講演、さいごは声がかすれるという未熟さを露呈してしまいましたが、通しのテーマは「近代ホスピスと岡村昭彦の気脈」でした。
いま、「岡村昭彦(1929-1985)」といっても大半の人には? でしょう。
また、なかにはアメリカの雑誌「LIFE」のヴェトナム戦争報道で世界的に知られた写真家岡村がなぜホスピスと関係しているのか、といぶかる人もいるでしょうね。
岡村の業績についてはAKIHIKOの会を覗いてもらうとして、没後20年以上たってなぜ私があらためて岡村昭彦を論じようという気になったか。
その発端は今年、慶応大学経済学部の現代史講座『「いのち」の歴史学』で担当教授の高草木光一さんから、岡村を論じてほしいという話からでした。
高草木さんは大学院生のころに岡村が亡くなる半年前の「訪問インタビュー」(NHK総合テレビ 1984.9 4回 全80分)を観て、その印象が強烈だったというのです。
そして「1960年代をベースに、いのちの現代史が構築されるのでは」と、そこで岡村昭彦の問い直しが要るのではと。
なかなかの視点でした。
たしかに脳死・臓器移植、遺伝子操作とまさに生命操作が可能になったのは1960年代、そしてホスピスの誕生。
その背景には核時代の最も過酷なヴェトナム戦争と医療技術の関わりがあったのです。
『「いのち」の歴史学』のシラバス(講義案内)ではこんな紹介になっていました。
1963年11月、アメリカの雑誌『LIFE』の表紙をDNAの二重螺旋モデルが飾った。これに着目したヴェトナム戦争報道カメラマン・岡村昭彦は、その後「バイオエシックス(生命倫理)」そして「ホスピス」を希求する運動をはじめる。彼のなかでは、戦争とホスピスは「いのち」で結びつけられていた。米沢慧は、この岡村の運動を支え、没後もその遺志を継いで運動をつづけている。
この講座が彼の写真を読み直す機会を与えてくれました。岡村昭彦の思想を、戦争写真家ロバート・キャパを継いだとされる写真をテキストにして、「いのち」の視点から問いなおす試みになりました。
写真家としての世界デビューとなった『LIFE』(1964年)誌の「遠くて小さな戦争だがとても醜い」という7頁の写真が、実は「戦場における死とその過程」の記録以外ではないことに今回あらためて衝撃を受けました。
講座ではその写真の文脈を語ることで精一杯になり、なぜ戦場取材からバイオシックス・ホスピス運動に岡村昭彦を駆り立てたのか、その展開軸についてはふれないまま終わってしまい、それだけが心残りでした。
大きな階段教室は学生より社会人聴講者のほうが多かったのですが講義の反響は大きかったと聞きました。
ところが間もなくして、来年第33回目を迎えるという死の臨床研究会年次大会(2009年11月7~8日)のシンポジウム「ホスピス運動の歴史と現在を見つめる」で「岡村昭彦」が採りあげられることになり、その基調講演とシンポジストを引き受けることになったのです。
岡村と死の臨床研究会との縁については、彼がかつて監修訳した第1回ホスピス国際会議(1980年6月)の記録『ホスピス その理念と運動』(シシリー・ソンダース他著)がソンダース追悼記念出版として23年ぶりに復刻された(雲母書房)際に、日本語版序文で柏木哲夫氏が次のように述べています。
木村利人先生(現在恵泉女学園大学学長)から岡村昭彦氏がホスピスのことであいたいと希望されておられるので時間をとってほしいとお電話をいただいた。
1980年前後であったと思う。
木村先生は生命倫理研究の重要性を日本ではじめて提唱された方でよく存じあげていた。
岡村氏はヴェトナム戦争の写真家ということ知らなかった。
お逢いする約束をしたところ、ご両人そろって、淀川キリスト教病院に来てくださった。
当時私は病院で末期患者のためのチームアプローチを実践していた。
お逢いして話しているうちに岡村氏がジャーナリストとしてホスピスの歴史に深い関心をもっておられることがわかった。
……二度目に岡村氏に会ったのは「死の臨床研究会」の会場であった。
ほんの短い時間の会話であったが、そのときの岡村氏の言葉が強烈な印象で今も私の心に残っている。彼は言った。
「ホスピスや死の臨床の真髄は平等意識です」と。
このころ木村利人・岡村昭彦の二人はバイオエシックス(生命倫理)運動に関連したジョイント講演を一月に20回以上といった勢いで活動していた時期と重なります。
ちなみに岡村のいう「ホスピスや死の臨床の真髄は平等意識」、つまり患者と医師は対等でなければいけないという警句名言と併せて、わが国医療界に「インフォームド・コンセント」を最初に持ち込んだのは、この二人だったことも知っておいてほしいものです。
間違いなく岡村昭彦の存在が歴史になった、そんな思いから夏季合宿ゼミを急遽「近代ホスピスと岡村昭彦の気脈」として総ざらいをしてみようということになったのです。
近代ホスピスの誕生といえば、私たちは即座にシシリー・ソンダース女史の名前と共に聖クリストファー・ホスピス(1967年)をあげるでしょう。
しかし、わが岡村昭彦はこういっています。
「世界で最初の〈近代ホスピス〉が、末期患者の死のケアを目的として、植民地として苦しみ続けるアイルランドの首都ダブリンに誕生したのは、19世紀も終わりに近い1879年12月9日のことでした。明治12年、日本では自由民権運動が民衆の力でたくましく歩みはじめていたときです」
「近代ホスピスのルーツをたどるには、まずロンドンからアイルランドのダブリンに飛び、ハロルドズ・クロスの丘にたつ1879年から100年の年月を超えた〈聖母マリア・ホスピス〉を訊ねることです」
(以上岡村昭彦『定本・ホスピスへの遠い道』から)
ここから、私は岡村昭彦、〈聖母マリア・ホスピス〉を立ち上げたマザー・メアリー・エイケンヘッド、そして
その系列を踏んで〈聖クリストファー・ホスピス〉を誕生させたシシリー・ソンダースというトライアングルの視点からホスピス像を描き出そう。
これが今回の試みでした。
来年の死の臨床研究会年次大会長の佐藤健(国立病院機構豊橋医療センター緩和ケア部長)さん、シンポジストとして参加がきまっている岡村昭彦名古屋ゼミのリーダー核だった細野容子さん(元岐阜大学看護学科教授)の参加、さらに先の慶応の高草木教授夫妻ものぞきにこられるなど、ゼミは盛り上がったしだいです。
この合宿ゼミ直後にアメリカに渡った細野さんから今朝メールが届きました。
「合宿企画に刺激をうけました。
出発前にインターネットでMary Aikenheadに関するOur Lady’s Hospice. MT ST. Michael’s College, Hospice Education institute in U.S.A等の概略を飛行機のなかで目を通し、岡村さんからいただいたMary Aikenhead資料の「apostolate of love」を持参し読み込んでます。
…アイルランドから起こったホスピスを深く学びなおすようにという岡村さんの言葉がいまやっと私に届いたように思います。
できるかぎりのことをしてみます。
よろしく」と。
岡村昭彦が亡くなって23年ですが、彼はいまだ騒がしく私たちをせき立ててくれます。
なにか、あらたな展開になりそうです。
ちなみに彼が残した16000冊にのぼる蔵書も、現在「岡村文庫」として静岡県立大学付属図書館(〒422-85静岡市駿河区52-1)におさまっており、だれもが検索でき利用できます。(9月10日記)
○その2 この10年は いのちの明け渡しのレッスンでした。
もうひとつ、「この10年間」に義父母ら三人の老親を見送りました。なかでも義父母の晩年の15年は衰えた淡い息とともに寝たきりの日々と重なっていました。
この間の大事な教訓をエリザベス・キューブラー・ロスにならっていえば、「いのち」の明け渡しレッスンだったといえるでしょう。
まずは義父です。ふだんから会話は最小限、必要な会話以外はしない寡黙な人でしたが、からだは大きくて病気らしい病気をしたこともなく、80歳を過ぎても補聴器をつけて週に何度かは一人で電車に乗り出かけたりしました。
テレビの相撲中継が大好きで補聴器を左耳に、右耳にはヘッドフォンを挿入し、さらにテレビのボリュームは最大。
建物全体がスピーカーというありさまで、家族は耳栓をしてともに観るといったこともありました。
歩行が困難になったときにさいごまでこだわったのは便所への自力歩行に自力排泄でした。
ベッドから5メートルほどの手すりをつけた廊下を万里の長城を進むがごとくにゆっくりと。
最初の頃は5分くらい、やがて10分になりになり15分になり、見かねておもわず手伝おうとすると叱責がとび、手で払いのけられるほど。
その意思努力はたいへんなものでした。
便所にたどりつけないで途中で漏らし、へたり込んだりするようになったときでさえ、這いながら便所を目指しました。
家人はだれも止めなかったし、尿瓶にしたら、おむつにしたらと提案する者もいませんでした。
そんなある日、明治生まれの義父は突然わたしをベッドまで呼ぶと「ヨネザワ君、君はいくつになったのか」と尋ねました。
「わたしも五十半ばです」
とこたえると
「そうか。わしのようになるには、君はまだ30年はあるんだな」
といい、
「わしはもうだめだ。迷惑かける。宜しく頼む」
といったのです。
その日から義父はトイレにいくことをあきらめ、立ち上がることも一切やめ、ベッドのなかで蓑虫のように小さくなっていきました。
訪問介護を受けた際の義父の調査項目は「寝返りはまったくできない。
座ることや這うことや衣服の着脱はまったくできない。
視力は少しみえるが聴力はほとんどないに等しい。
最小限の会話や人の話は理解できる」とあったのを覚えています。
精一杯がんばった。
自力の排泄がむりとだと自覚したとき、自分のいのちの明け渡しも近い、それでいいのだと悟ったにちがいありません。
間もなくして義父は、家人が口元にもっていった水差しを手ではらった翌日に、少しずつからだが冷えていき呼吸が止まりました。
91歳でした。
義母は若いころから病気がちで、6人の子どもらにはつねに自分は早死にすると言い続けてきたといいます。
たしかに何度かの大きな手術で入退院を繰り返し、晩年は糖尿病でインシュリンが毎日欠かせないものになっていましたが、病院へいく以外に外出することもなく、連れ合いより長く93歳まで生きました。
亡くなる前年に始まった介護保険法適用で義母は要介護度5と4を行き来しましたが、寝たきりでも麻痺拘束はほとんどなく、認知症もなく意思疎通はしっかりしていました。
亡くなる前日のことでした。仕事で出かける前に
「いってきます」
とベッドの脇に立ったとき、唐突に
「ヨネザワ君。わたし、もうすぐいなくなるから。ありがとう」
というのです(そういえば、義父母はわたしをさいごまでヨネザワくんと呼びました)。
これまでに何度か「死にたい」とか「こわい」など口にした際には慰めのことばをかけたことはありましたが、この日義母の表情や言葉には不安の翳りは見えませんでした。
「もうすぐいなくなる…。そんな気がするんですか」
「来週はわたし、もういないとおもう。お世話になったわ」
わたしは(もうすぐ死ぬ? そんなこと言わないでがんばって)という言葉を飲み込んでいました。
義母の目は、そういう返事を期待していなかったからです。
「ぼくもいっしょに暮らせて、よかったですよ」
と手を差し出した。
「長いこと、ありがとう。それから、キョウコは来週にはあなたに返すから」
キョウコとは妻の名前です。
おもしろい言い方だなあとおもって
「まだ、いいですよ」
と笑いながらことばを返したほどでした。
けれど、私の手を握りかえしながら“母”の顔になっていました。
義母はその日の夕方、病院で診てもらうからと家族に入院をせがみ、翌朝病院でだれにも看取られることなく亡くなったのです。
もう一人、郷里(山陰)の父の晩年にもふれてみます。
父の死は、正月明けの6日、雪の朝に眠ったまま起きてこないという母親の電話で知らされました。年末に年賀状を書き上げることができなく、前夜もたどたどしく賀状を書いていたといいます。
電話口で母は
「お父ちゃんはいい死に方だったから悲しまなくていい」
と落ち着いていい、わたしは
「わかった。それはよかったねえ」
と返事をしたのです。
母の「悲しまなくていい」というのには理由がありました。
予測できた死ではなかったのですが、父は二カ月前にすでに私たち身内とのお別れを済ませていたのです。
教師をしていた父は定年後に腎臓摘出とか胃がんの手術などをくり返していましたが、前年に長寿者叙勲の知らせを受けた際、父は「ただ、長生きしただけで、勲章なんぞはもらえない」と率直に語り、周辺からの慶賀や祝宴のうごきを辞退していました。
その一方で、父の衰えははげしく歩くのもつらくなり、しばしば失禁し、それを悔やみ怒り、ときに幻視幻聴にもおそわれるようになり、二人暮らしの母をおびえさせ不安がらせてもいました。
そこで、わたしは“生前葬”のような集いができないだろうかと。
“生前葬”とは元気なうちに人生に彩りを添えてもらった人にお礼の気持ちとか、お別れのことばを伝える趣旨の集いです。
以前にそんな会に招かれたことがあり、名称は正直気に入らなかったのですが、こういう別れ方があることを知っていたのです。
「元気なうちにさようならをする会もあるよ」
というと父は
「わしもそれがやりたい」
といい、自分なりに会の趣向を考えていたのです。
父には兄弟をはじめ血縁者はいませんでした。
四、五歳ごろまでに戸籍が五回も変わっているほどの事情があり、わたしが中学生の頃に「生まれてこなければよかったとおもったことがある」という父のことばに驚き、恐くなり怯えたことがあるのです。
それ以降父親の出自について訊ねることはありませんでした。
そんな父が人生さいごに自ら動いたのです。
なにをしたのか、自分の父親さがしだったのです。
父は実父の(自分のではない)生家を探し訪ねると若い兵士姿の写真を一枚もらい受けて帰ってきたのです。
大正三年といいますから父が生まれた翌年に撮った、若い日の父親の軍服姿でした。
「この人がわたしの父、おまえたちの祖父!」
とはじめて公表したのでした。
「これは、間違いなく若いときのお父ちゃんそっくりだ」
と囃し立てると父は顔をくしゃくしゃにして泣きだしました。
宴は身内だけのささやかなものでしたが、父は杖にすがりながら
「この村に生まれ、この村で死んでいくことに感謝します。もう、死ぬことは怖くはありません。ただ、希望としてはあと二年ほど…」
といった挨拶をしたのでした。
亡くなった日、わたし宛の届かなかった賀状には
「おめでとう。お世話になりました。ありがとう、ではまた」
とありました。
90歳でした。
その後一人残された母は
「お父ちゃんは自分が先に逝って私に自由な時間を残してくれた」
と理解して、いまは近くにいる私の妹母子に支えられて、残り少ない人生を愉しんでいます。
いのちを明け渡すに際しては、やり残しのないようにふるまう。
生きていくために必要だったたくさんのことばが廃棄され、けっきょくは
「ありがとう」「ごめんなさい」「さようなら」
という一期一会のことばだけが届けられていたのです。
しかも、この言葉によって、自身のいのちが抱きしめられ、自らの人生が肯定されていたことがわかります。
「人生の完成に必要な条件は誕生と死の二つである」
とE・キューブラー・ロスはいっています。
「どんな人であれ、生まれるときや死ぬときは、大きな力に自分を明け渡している。生まれたあと、死ぬまでのあいだに、われわれが迷うのは、明け渡すこと忘れているからである」(『ライフレッスン』)。
宿題の二つにはなんとか応えられたようにおもいます。
そのため大きなテーマがのこってしまいました。
「鎮静(セデーション)」についてです。
これについては次回以降にじっくりと考えさせてください。
ちなみに、「鎮静(セデーション)」とは、実際の処置は、点滴から塩酸モルヒネと鎮静剤を入れ、意識をなくし、点滴の水分量を減少させてゆく。
その先で呼吸が止まってゆくという医療行為を指すのでしょう。
そうなら、議論をする前にやはり押さえておきたいことがあるとおもいます。
最近、読んだ本でいえば、行き場を失った人たちが暮らすドヤ街の終の棲家、山谷のホスピス「きぼうのいえ」の物語(中村智志『大いなる看取り』新潮社)のなかのシーンです。
「このまま眠らせてくれ。薬を飲ませて、このまま眠らせ死なせてくれ」
と訴える末期の男性に
「ごめんね、ただそばにいることしかできないんだよ」
とこたえて寄り添い、意識が薄らぐ男性の足をマッサージしつづける看護師の情景です。
「そばにいる」とは死に行く人に寄り添い、時間を共有し、静かに見送ることだけかもしれません。
けれど、ここに「鎮静(セデーション)」を介入させれば、(そばにいるのに)そばにいない医療行為でおわってしまうことになるでしょう。
「先生、わたし夕べはほとんど寝ないで自殺することを考えたの。方法はありませんか」
とか、
「先生、そろそろ終わりにしたいんです。もうこれ以上苦しめないで」
とか、臨床家として、これに類した重い場面に内藤いづみさんも向き合ってこられたにちがいありません。
そんなときどう対応されてきたんでしょうか。
そのあたりを聴かせていただければ、この議論も深くなるとおもいます。
八ヶ岳が色づくのはいつごろになるでしょうか。ご自愛ください。
米沢慧(9月15日記)