レイチェル・カーソンについてお話を 2
川村まさみ様との往復書簡、第ニ回目です。
いづみ先生
季節は本当に春を迎えつつあります。東京では今日、最高気温が13度、風もなく穏やかな日曜日です。冬も好きですが、やはり春の息吹は素敵ですね。風も光も「外に出ておいで」と誘っているようで、休みの日に籠っているのが勿体なくなるのも間近です。
さて、お手紙の最後に、「あの『レイチェル』にまつわるお話を、次回はもう少し教えて下さいますか?」とご要望がありました。「私はモナーク蝶の大群を見ているシーンが、心に深く刻まれています」という一文に、この往復書簡を読んでくださる方々のご興味も引かれるかと思いますので、たくさん引用させてもらいながらご紹介します。晩年のレイチェルの言葉は、その著作同様、輝きに満ちています。
1962年9月27日に世に出た『沈黙の春』は、その要約が出版前に有名な雑誌に連載され高い前評判を得ていたこともあり、出版されるや書店での入手が困難なほどでした。その秋中、「ニューヨークタイムズ」紙のベストセラーリストで一位を占めるという商業的な快挙をも成し遂げていたのです。
しかし、一方で攻撃もすさまじく、前農務省長官による「子どももいない独身女が、なぜ遺伝のことを心配しなければならないのか?」という呆れた発言が珍しくはないような有様でした。まさに称賛と非難の嵐が吹き荒れ、それは数か月では終わりませんでした。しかし、本の校正中、1962年2月に、レイチェルは友人に向け書いています。
「私が救おうとしている生きている世界の美しさは、いつもまっさきに私の心に浮かんできます――同時に、現在行われている野蛮で愚かしいことに対する怒りでいっぱいになるのです。私にできることはやらなければならないという厳粛な責務があると感じています――もし、試みることすらしなければ、自然のなかで二度と幸せな気持ちにはならないでしょう。しかしいまは、少なくとも少しは手助けができたと信じることができます。一冊の本が完全な変化をもたらすと信じることは現実的ではないでしょう」
この覚悟をもって、レイチェルはすべてに耐えてゆきます。
1963年3月には、レイチェルのがんは骨に転移していました。その頃、親友のドロシーに書きました。「私がいいたいのは、このことで不幸に落ち込んでしまわないことなの」「私たちはこれからも幸せになって、人生に意義をもたらしてくれるすばらしいことをすべて楽しみましょう――日の出や日没、湾にふりそそぐ月の光、音楽や良書、ツグミの鳴き声や空を飛んでいくガンの野生の叫びを。だから――残りの時間がどれだけであっても、楽しんで幸せに暮らしましょう」
1963年6月25日に愛するメイン州の別荘に辿り着くころには、レイチェルの心臓は不安定になり、脊椎には圧迫骨折の症状があらわれ、歩くことが困難になっていました。そんな夏のある日、レイチェルはドロシーと一緒に、モナーク蝶(訳者注 オオカバマダラ。数千キロにおよぶ渡りをする)を何時間も眺めたことがありました。以下は、その日の午後、ドロシー宛に書いた手紙です。
「けれどもとりわけ私は、あのモナーク蝶を忘れないでしょう。小さな羽で、一羽また一羽と、ゆっくりと、目に見えない力にひかれているかのように、ヒラヒラと西へ向かって漂っていきましたね。私たちはあの蝶の渡りについて、蝶の一生について語り合いました。彼らはもどってくるのでしょうか。そうではありません。ほとんどの蝶にとっては、それは生命の終わりへの旅立ちなのだ、と二人で話しましたね。
けれども今日の午後、そのことを思い出しながら、その光景がすばらしかったこと、彼らが帰ってくることはないだろうと話したときも、何の悲しさも湧いてこなかったことに気づきました。そしてほんとうに、生きとし生けるものがその一生の終わりを迎えるとき、私たちはその最期を自然の営みとして受けとります。
モナーク蝶の一生は、数か月という単位ではかられます。私たち自身の場合、それはべつの尺度ではかられ、私たちはその長さを知り得ません。しかし、考え方はおなじです。はかることのできない一生を終えることも自然であり、けっして不幸なことではありません。
これが今朝、きらきらと羽ばたく小さな生命が私に教えてくれたことです。私はそこに深い幸せを見出しました。あなたもそうであるように祈っています」
1963年9月13日、レイチェルは深く愛し二度とは戻れないだろうメインを発ちました。
それからの日々は、身辺整理と『沈黙の春』に贈られる数々の栄誉ある受賞、病気を押しての講演、なにより悪化する体調とつらい治療が待っていました。あの美しいエッセイ『センス・オブ・ワンダー』がこの時期に手を入れられていたことを思うと、あのきらめきの意味が実感されます。(刊行は死後となります。)
1964年4月14日火曜日の午後遅く、レイチェルは心臓発作に襲われました。1907年5月27日の早朝に生まれたレイチェルは、日没の直前に56歳で生涯を閉じたのでした。
レイチェルは環境保護活動家のようにさえ思われているかもしれませんが、まずなにより作家でした。寡作ながら作品を貫くのは自然への溢れる愛情と信頼であり、『沈黙の春』はそれらを守るための闘いでした。自然の美しさへの深い愛情と、親友からの細やかな愛情と、もしかしたら病気にすら支えられて(人は時間が無限にあるように感じられる健康なとき、これほど強くはなれないのかもしれません)、レイチェルは世界が知る「レイチェル・カーソン」になったのです。
さて、引用だらけのお手紙ですが、先生がみなさんに知っていただきたいレイチェルは十分にお伝えできているでしょうか?
川村まさみ様との往復書簡、第ニ回目の復路です。
川村さんへ
お忙しいところお便り有難うございました。
一気に暖かい日が訪れて、縮こまった体が伸びますね。
あなたのすてきな文章で伝わる「レーチェル・カーソン」の静かで力強い生き方が、たくさんの読者にズシンと重い感動を与えてくれました。私自身、読んでいて鳥肌が立ちました。もう一度「レーチェル」を読み返しています。
世界中で対温暖化のニュースが話題にならない日はありません。レーチェルの発言の意味は日増しに重くなります。真剣に考えると、未来を生きる意欲さえ失ってしまうほど、危うい地球環境の真実の姿。無限に重なり合ういのちの連鎖の中にある人間が、これほど後先もなく欲望を広げ、多くのいのちの未来を犠牲にして得られた快適なライフスタイルを、あなたとの書簡は自覚させて下さいました。とにかく、消費にすぐに走らず我慢することを自分も反省しました。質素に暮らすことを私たち大人が思い出さなくては、と決心させてくれました。
私は昭和31年生まれです。幼い頃、我が家にはかまどがあったんですよ。信じられますか?朝起きると、母が既に朝の支度を終えて、パチパチと台所では火が燃え、冬ならコタツは炭で温かくなっていました。同世代の日本人なら皆同じ体験があるはずです。甲府盆地は昔は今よりずっと冬中空っ風が吹き荒れて寒かったです。
中学高校と、田舎から甲府へ往復2時間掛けて電車通学していたのですが、今となるとその辛さをあまり覚えていません。かなり寒かったと思います。ほっぺを真っ赤にして、駅から学校へ自転車を漕ぐ私を想像してみて(笑)。
しかしながら、「私たちの世代は昔を思い出して頑張れる!」とは簡単には言えません。苦労を体験してきた84歳の戦前派の母でさえ、クーラーや暖房の恩恵に慣らされると、もう昔に戻ろうとは思わないようですもの。
「あぁ、快適だ。あぁ、極楽だ。」と嬉しそうです。
自分も含めて、楽なこと、快適なことが大好きな人間たちのこの性分をどうしたらいいのか、と深く悩みます。ひとつだけ思うのは、他のいのちと繋がる場面を各々が確保するということしかないのかなと。
子育てはもちろん大切ないのちの繋がりの働きです。私のしている在宅ホスピスケアもそのひとつの現場です。
文学少女だった私は、10歳頃からずっと作文を書いてきました。10歳で山梨県1位の作文の大賞をもらったのは、“若草物語を読んで”でした。4姉妹の中のジョーのボーイッシュな自立した美しさと元気さに憧れました。早熟だったのかしら?そして今は、折々のエッセーを発表する機会がいくつか与えられています。
人間の歴史の大きな流れを変える、などという大それたことを考えたことはないけれど、少なくともこの社会を構成するひとりひとりの人間が、他者との関わりの中で生かされていることに思いを馳せてもらえるように書いていけたら幸せです。
蝶の一生も、猫の一生も、植物の一生も、人間の一生も、与えられたライフサイクルで儚くあっという間ですが、そのきらめきの一瞬に心を澄ませて目を留めていきたいです。
同じホームページ上で、スピリチュアルケアについて書簡を交わして下さっている井上ウィマラさんは、仏教のヴィパッサナー瞑想の先生でもあります。同じ流派のスマナサーラ長老のお書きになった教科書の「慈悲の瞑想」の一部を紹介します。心の中でも、声を出してもよいので、静かに唱えるとよいそうで
す。
「私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願い事が叶えられますように
私の親しい人々が幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように」
この瞑想については、井上ウィマラさんに次回詳しく伺ってみますね。
全てのいのちが幸せで生きることがどうすれば可能なのかしら?
では、本当に今回はありがとうございました。
東京で必ず再会いたしましょう!
永遠にあなたの友である いづみより