永六輔さんの終わりなき旅
女性自身5月21日号より
4月21日朝10時、JR新宿駅9番線ホーム。風が強く、そこに小雨が吹き込んできていた。
「今日はいちだんと冷えますね。昨日は暖かかったのに」その女性は、男性が乗っていた車椅子を慣れた手つきで固定してから、自分が首に巻いていたスカーフをスルスルと外し、しゃがんで男性の膝を覆った。
『ありがとう。んっ、これって絹? 織り目がいいね』
「そう、色も気に入ってて」
10分遅れの電車が到着すると、男性がゆっくりと立ち上がった。乗り込むときはつえを使い、自力歩行をしなければいけない。だが転倒が怖い。
一歩、一歩シートの背につかまりながら進んでいく。20歩ほどで、息が荒くなった。
「これだけでもね、大変で」座席に体を沈み込ませると。
男性は目を閉じた。今日の舞台、その演出方法のアイデアがどんどん頭の中に浮かんでくる。
北に八ヶ岳、南に富士山、西に南アルプスを望む、山梨県甲府市。甲府駅からほど近い商店街の一角、小劇場「桜座」の前には、長い行列ができていた。
本日の演目は『永六輔を囲んで。生きる』、出演者は4人だ。永六輔さん(80)、ふじ内科クリニック・院長の内藤いづみ医師(57)、舞踊家の田中みんさん(68)、そして、ピアニストの渋谷毅さん(73)が登場する異色のコラボ。
記者は、出演者である永さんと内藤さんに東京から同行し、会場を訪れた。
内藤さんが、永さんに声をかける。
「よかったよかった、ちゃんと無事に着いて」
「このところよく家の中で転んだからね」
永さんは、3年前、パーキンソン病と前立腺がんを公表し、その後もたび重なるけがで懸命のリハビリを重ね、復帰を果たしたところなのだ。
レトロな喫茶店の奥にある芝居小屋風の小劇場『桜座』は、永さんの数あるお気に入りの場所のひとつ。
「人間は死んだら土にかえる。この劇場『桜座』 つてのは、舞台が土になっててね。僕はここが大好きなの』
そして午後3時過ぎ、いよいよ開幕。
つえを使いひとりで一歩、一歩踏みしめながら永さんが登場。その姿に、観客の温かい拍手が鳴り響く。そしてマイクを右手でしっかりと握りしめてしゃべり始めた。
「甲府の商店街では、私か死んだというデマが流れたそうですが、ほら、元気です!」
のっけから観客を笑いの渦に巻き込んでいく。
「私は今。病人とけが人の両方をやっているから忙しい(笑)。ろれつが回らないとか箸が持てないとか、しかも転んで骨折……。でも、ご覧のとおり『なぜか難病が回復している』と注目もされていますよ。注目されているのはキーパーソン。パーキンソンのキーパーソン(笑)」
永さんは、病院でリハビリを手伝ってくれたジャカルタ出身の青年の話も披露してくれた。ある日彼が「『上を向いて歩こう』という歌を知っていますか? この曲を歌いながら歩きませんか?」と提案してきたという。
「それで『そんな歌知らない』と言ったら、青年が『ウソでしょう?有名ですよ。では、僕が歌います』と。ここで嫌な予感がしたんです……。
病院の廊下を若者が歌いながら歩き、その後ろを僕がトコトコ歩いてく。するとみんな見ちゃいけないものを見たような顔に(笑)」
『上を向いて歩こう』は、永さんが28歳のときに作詞した、日本人なら誰でも知っている名曲。担当医にそのイタズラを注意された永さんは、「翌日、『実はよく知ってる。僕がつくった』と白状したんです。すると、彼が『ま~たぁ、うそついて』って(笑)」
会場のお客さんは年配の方が多かった。だからこそ永さんの潔い言葉が、きしむ体に、潤滑油のように流れ込んでいくよう。
「僕は何度も転ぶの。医者に『次に転んだらもうおしまいですよ』と言われてたのに、また転んだ。でも今は元気。医者の言葉を簡単に信じてはダメですよ(笑)」
また、転ぶといけないからと親友の小沢昭一さん(故人)にタクシーに乗せられたときに、永さんは交通事故に遭っている。車は一回転したが無事だったそうだ。
「事故の翌日、小沢さんが『あんた、事故に遭う前よりよくしゃべってるよ。昔のラジオはさ、調子悪くなるとたたくと直る。それと同じだ!よかったよかった』って。確かによくしゃべれてる(笑)」
次々に繰り出されるこのような。武勇伝にみな腹を抱えて笑うが、ときおり絶妙のタイミングで内藤さんの「冷静な助言」が入り、そこで会場の空気が引き締まる。
永さん自身も、内藤さんがそばにいることで、安心して永六輔節を披露しているようだった。
「この人厳しいの。でも、それがうれしい」
永さんと内藤さんとの出会いは20年くらい前。永さんが父の「病院での看取り」に違和感を覚え、終末期医療やホスピスケアについて調べていたときだ。そして今回のように、同じ舞台に立つようになったのは15年前から。2人に詳しい「なれ初め」を聞いた。
永「在宅で看取りをやっている女医に初めて出会って。しかも深刻なことも、いい笑顔でしゃべる明るい性格でしょ。だから気になっててね。僕は元来女性が大好きだし(笑)」
内藤「うふふっ。一緒に講演会をして在宅ホスピスや看取りの輪を全国へ広めよう、2人で『いのちを伝える旅』をしようとなったんですよね。
これのいいところは、私と一緒だと永さんの体調もチェックできるし、薬の処方もできます(笑)」
永「あなたに会うと不思議と元気になるのね。薬はあんまりもらったことないけど(笑)。
医者や病院に対して、文句がいっぱいあった。でも自分が病人、けが人になって何人かの医者と付き合うようになると、それほど悪くはない(笑)」
内藤「それはよかった。永さんのスケジュールはたくさん入れたほうが意欲がわいて、より元気になるみたいだし。骨折して退院後、1週間で福島の被災地にも行きましたね」
永「この人、厳しいの。でも、それがうれしい。被災地にまた励ましに行きたいね。あと旅の途中、どこで倒れてもいいように、僕には全県に主治医がいる(笑)』
内藤『親しい先生って、絶対に必要ですね』
永『そう、かかりつけ医をぜひ持ってね。自分に合うお医者さんを探す努力をする。まわりに『どの先生がいいですか?』ってどんどん聞くこと。
医師と上手に付き合う方法も含めて、伝えていきたい。それが、やすらかな最期を迎えるためには重要なのだと」
内藤「医療の世界では、患者さんに難しい言葉で語ったりする人が多いんです。でも永さんは、難しいことも心の奥に届くユーモアのある言葉で、誰でも一瞬にしてスドンとわからせてくれるんです」
大切な人の最期に何ができるか?
「僕は何度も入院してるし、恩のある人はいっぱいいる。生きていくということは、誰かに助けてもらって借りをつくること。その借りをどうやって返していくか。それが人生。生き方がその人の死に方になる。本当はね、生きるのは死ぬことより大変なんだ」
永さんの人生で最大の試練は11年前、最愛の妻・昌子さんを亡くしたときだったという。末期の胃がんだった。
永さんは実父と実母の看取りに立ち会っている。父は病院で管につながれたまま、母は病院で家族の腕の中での最期だった。だから「妻は家で看取る」と決意する。それを可能にしたのは在宅医療を専門とする医師と看護師だった。
「看護師は『開業ナース』というプロ集団で本当にすごかった。普段着で来て、手を洗ってさっとエプロンつけてね」
紅葉が色づくころ、住み慣れた家に戻り、庭を眺め、ソファでくつろぐ昌子さん。そこには穏やかな時間が流れていた。永さんはいっさいの仕事を断り介護に徹した。昌子さんはそんな夫に対して、何度も「ありがとう」を口にする。
「結婚以来、夫婦でこんなにゆっくりと過ごしたことなんてなかったなと思いました」
夜中1時間ごとのトイレの介助。年明け、家族だけでは限界を感じ始めたころ、昌子さんはお気に入りのソファの上で娘さんの腕に抱かれたまま、静かに息を引き取った。
このとき永さんは看護のプロたちから、非常に多くのことを学んだという。
「家族がただ患者の手を握る。それが、どれだけ大切なことか。医療のド素人でも多くのことを大切な人の最期にしてあげられるんだ。それを教えてくれたのは、訪問ドクターと開業ナース。メディアにはあまり紹介されていない看護のプロたちの素晴らしさを、もっと全国の人に伝えていきたいと思ったんです」
内藤さんもまったく同じことを考えていた。2人の活動の始まりは、もしかすると、昌子さんが引き合わせたものなのかもしれない。
永さんがぽつりとつぶやく。
「最期は内藤さんがいる甲府に来ることになるかな……」
内藤さんの笑い声が部屋中に響く。
「永さん、まだまだいっぱいやることありますよ~」
2人の「生き方」を伝える旅は、もっと遠くへ、もっと多くの人へと。
取材・文藤本美郷 撮影・南浦譲