井上ウィマラ・内藤いづみ往復書簡Vol.3
悲しむ力と育む力 その5 井上ウィマラ(往)
トラウマが癒えるとき
里さんの「わたし舟」の詩、素敵ですね。仏教でも悟ることを彼岸に渡ると表現します。
昔の中国禅宗のお坊様には、聖クリストファーのように河の渡し守をした人の話が伝えられています。
ブッダは、筏につかまって川を泳いで渡るときには「あわてず弛まず流れを読んで渡る」ことの大切さを説いています。
私が渡し船になるという洒落もいいですね。スピリチュアルなケアはそれと気がつかれないほうがよいことも多いのですが、「名も告げず」というところはそれをうまく言い得ています。
悟りは、最終的に私という船に対する執着も手放して行くのですから。
医師の教育に関する内藤先生のご意見にはわたしも同感です。先日ある病院で診てもらう機会がありました。
30代後半か40代くらいの男性の医師でしたが、その一方的な態度に驚きました。お前は黙って俺の言うことを聞けというのがひしひしと伝わってくるのですね。以前70代のお爺さん先生にそんな人がいて、年代の問題かなと思ったのですが、そうでもないようです。
また、父親の付き添いで病院にいったときには、パソコンの画面ばかり見て目の前の患者を診ない様子にびっくりしたこともありました。病理をテクニカルに叩くことだけに興味を持ってしまって、目の前で痛みを抱えている生身の人間を見ようとしない傾向性があるのでしょうか・・。
知り合いの先生にそのことを尋ねたところ、大学の医局の師匠がそういうタイプの人だと生徒たちも自然にそういう態度を身につけてしまうものだと話してくれました。
医学部の1年生の医学原論なんかの中で医療における対人関係能力の重要性を説いて、具体的なトレーニングも早い段階で導入してほしいものだと思います。
限られた時間の中でも患者さんに「先生に分かってもらえた、聞いてもらえた、良かった」と思ってもらえるような対人関係能力、傾聴力、共感力などを身につけてもらいたいものです。
トラウマの癒し方
さて、トラウマの癒し方なのでが、大まかに見て次の3つのプロセスがあります。
1.トラウマとなった出来事を思い出し、再体験する。
(Re-experience:再体験)
2.冷凍保存して押し込めていた感情を溶かして放出する。
(Re-lease:解放)
3.その出来事を自分自身の過去の一部として受けとめる。
(Re-integrate:再統合)
基本的には、その人が自らの体験を思い出して語るための環境を提供し、本人が語りながら湧きあがってくる感情のエネルギーを共感的に受容して見守り、それが何であったのかを言葉で確認できるように「~だったんだね」などと映し返しをすることで過去の物語として人生に再統合するお手伝いをすることが必要となります。
性的虐待であまりの辛さに解離を起こして性格をいくつにも分裂させなければ生き延びてこられなかったようなときには、思い出すこと自体が辛すぎて第2次災害を引き起こしてしまうことがあるので特別な注意が必要です。
最近では眼球運動を使ったEMDR(目を左右に動かしている間に思い出してエネルギーの固着を溶かして再統合を促進する方法)やインナーチャイルド法(イメージの中で小さな子どもを癒してゆく方法)のような新しい方便が開発されてきています。
さて、在宅ホスピスなどの終末期に過去のトラウマが出てくる場合には、医療や介護のスタッフとのトラブル、あるいは家族とのトラブルが生じたときにその可能性を考えてみる必要があるでしょう。
そのトラブルの中で患者さんは何を思い出しているのか、スタッフや家族という役者を相手に過去の何を満たそうとしているのか、何をやり直そうとしているのか、そういった視点を持つとよいと思います。
人は言葉によって思い出すことのできないことを、繰り返し何かの行動によって表現してくるものです。患者さんがトラブルを起こして来るのは、口では言えない何か、本人にもよくわからない何かを表現したいがためにやむをえずに行動化しているのです。
そんなとき、私たちは自分が責められているという思いを手放さなければなりません。そうすると、なんとなくその人の魂が表現したがっているテーマが感じ取れるものです。
子どもや若い人のトラウマを癒す場合には、トラウマを体験したときに本当はそのときに欲しかった愛情や思いやりは何であったのかを想像し、それをわたしたちの中に豊かに持ちながら、 今ここでその本人に接してゆくことが大切です。
トラウマを癒すためには必ずしも過去を思い出す必要はありません。今ここで行動として表現されていることを読みとって、必要としている魂の滋養分を提供し続けてゆけば自然に癒されてゆくところが少なくありません。
子どもから若者、認知症の老人に至るまで、あらゆるトラウマケアの基本を身につけようと思う人にお勧めの私のトレーニング法があります。
癇癪を起こした2歳から5歳くらいまでの子どものご機嫌が治るまで徹底的に寄り添ってみることです。あんなに怒っていたのに、突然遊び出したり、笑顔になったり、「えっ」と思うような瞬間があります。
そうした瞬間を数多く体験するうちに自然にトラウマケアの基本が身につきます。
なぜこんなことになってしまったのか 内藤いづみ(復)
書簡をいただきながら、ご無沙汰いたしました。
10月末にはなつかしいスコットランドの再訪の旅に出かけました。
30代の時に7年間、自分自身の家庭をつくりながら一生懸命生活をしていた街を訪れるのは不思議なうれしい体験でした。
旅行者としてではなく、かつてのくらしの視点がよみがえってきました。
拠点になったホスピスも健在でしたし、何よりもあたたかい心でもてなしてくれました。(もちろんそこはホスピタリティを学ぶ本山ですから!)
15年以上前、その街で長男も長女も産み育てたのは前にもお話しましたね。
イギリスではお産は集約的に地域の産科病院でとりあつかっています。
産むまでは、町のホームドクターのもとで助産師により健康チェックが定期的に行われます。
大安心でした。
日本ではこの山梨でも、お産のできる病院が減ってきていて問題は深刻です。
おそらくイギリス型を目指すことになるのでしょうが、いのちの最初のあり方も最期のあり方(ホスピス)も学ぶことのできるイギリスという国は不思議なほど、ふところの深い国です。
帰国後3人目の次女は山梨県韮崎市の助産院でとりあげてもらいました。
母子ともに順調で、健康なおかげで3回とも、お産に産科医師に登場してもらわず、助産師にいのちの誕生を手助けしてもらってせいいっぱい自分の力で産めたことは、私にとって大きな誇りです。
人生は体験しないとわからないことが多いです。(今ふと『体験し、学ぶために生まれてきたんだよ』、という声が聞こえた気がしました。)
私たちは、いのちの誕生、いのちを大切に育むこと、そして死をみとる、という自ら体験できる最大の学びのチャンスを与えられています。
しかしその学びのプロセスと向かい合い方が人生に深い影響と時には大きなトラウマを残すことも起きています。
この同封の新聞記事を読んで下さい。残されたご家族の気持ちがとても気になります。読者からの反響も大きかったそうです。
2007年11月20日 山梨日々新聞より抜粋
さよならのプリズム~がんになって~
余命半年。つらい現実を告げられなかった。広島市の田所誠二さん(44)は妻を見送って二年たっても、自分を責め続ける。「妻の死は妻のもの。残りの人生をどう生きるか、自分で決める自由があったのに・・・」
妻恵子さん=当時(41)=が子宮がんと診断されたのは2005年2月。妻は医師に「はっきり言って下さい」と頼み、一人で告知を受けた。電話を受けた誠二さんは職場から飛んで行った。
大学の1つ後輩で明るく頑張り屋。長女(15)と長男(11)を出産後、専門学校に通って簿記のしかくを取り、税理士を目指して「やりたい仕事が見つかった」と夜も布団の中で参考書を広げた。
入院3日後。誠二さんは一人だけ診察室に呼ばれた。「進行して治療が難しいあと半年かもしれない。覚悟してください」。ぼうぜんとしていると医師は続けた。「抗がん剤と放射線で治療はします。奥さんにはそれしか言いませんから」
残された時間を告げるべきか。でも絶望して自殺でもしたら。妻の母親に相談したが「かわいそうだから言わんで」と泣くばかりだった。「治して働くんだ」と前向きに治療に耐える妻が、ある日「隠していることがあったら正直に言うて」と不意に尋ねた。ドキッとした。病名を知らない長男は「あと何日で退院かな」と待っていた。
4月の日曜日。病室を抜け出し、家族4人で満開の桜が咲く神社へと花見に行った。恵子さんは花吹雪の境内をゆっくり歩き、さい銭箱の前で5分近く手を合わせていた。来年の桜は見られないんだな。胸が詰まった。
痛みにうめく声。おびえた目。仕事中に携帯電話に届く「苦しい。早く来て」という悲鳴のようなメール。思い出すと刃物で切りつけられるように心が痛む。7月上旬、危篤状態に。
酸素マスク越しに何か訴えようとする口元に耳を近づけた。「なんで言ってくれんかったの・・・」。かすかな声だが確かに聞こえた。全部間違っていたんだ。その時はっきりと悟った。
亡くなる前夜、お別れを言った。「今までありがとう。また一緒になろうな」。返事はない。医師は余命を言えば、心を閉ざして治療を拒んだだろう。これで良かったんです」と繰り返した。
あの日から時間は止まっている。妻の服や持ち物はダンボール箱に入れたまま。「よう手をつけられんのです。心にふたをしていくしかない」。
春、桜をまともに見られない。毎夜眠れず、甲状腺の病気を発症した。葬儀の間泣きじゃくっていた長男は、今も決して母の話題を口にしない。
あのころ、看護師から聞いた話がある。亡くなる数日前、病室を巡回中に目にしたという。夜中、ベッドにうつぶせ眠り込む誠二さん。夫の頭をなでていた。「奥さん、分かっていたんでしょうね」
置きざりにされてしまった子ども達。
目標として「治す希望」を与えたい熱心な医者。啓蒙が進んでいるはずなのに、緩和されていない体の苦痛。制度の充実だけでなく、人はひとり対ひとりの出会いと深いかかわりでしか苦しむ魂を救うことができないと感じてなりません。終末期に重要となるいのちとか魂の問題は実は医療の枠組みだけではとらえきれないのです。
医者が、いのちの哲学をどう広く育ててくれるのか、それが緩和ケアやホスピスの真の発展に大きく影響すると思います。
このご家族は深く傷ついています。なぜこんなことになってしまったのか。別の道はなかったのか。後悔の嵐の中で未来へ歩むこともできず、家族は立ち止まっています。この家族が回復し癒される道はあるのでしょうか?
ぜひウィマラさんのアドバイスを下さい。
内藤いづみ