お手紙

生命の授業「メメントモリ~命と向き合うこと、よりよく生きること」

上野原にある島田中学校の生徒たちは熱心に私のはなしをきいてくれました。
先生たちと、地域の御父兄と自然の力に守られて育てられえていることを感じました。
教頭先生から「God Bless You」を受け取って頂けたことは私にとって過分なほめ言葉でした。


(先生からの感想)

 毎年のことなのに「今年は特に紅葉が美しい」といつも思うのはなぜでしょうか。
通勤の途中でも仕事の合間でも、ふと顔を上げれば、山の高みから降りてきた季節のうつろいがそこここに鮮やかな彩りを添えています。
さて、先日はお忙しい中本校のためにお時間を割いて下さってありがとうございました。
 私の感想のタイトルはあの場でお話ししたとおり「God Bless You」です。先生はあの2時間足らずのお話の全体で、私たちを包み込む祝福を送って下さったと感じました。以下は多分に個人的な感想です。
「人間の尊厳」について、3つ要素を挙げて下さいましたね。

1 自分の頭で考える。
2 自分で選ぶ。
3 選んだ結果を愛する。

 なんとシンプルで奥の深い定義でしょう。そしてその3つは私が勝手に師と仰ぐ先輩教師から、若い日に聞いたことと重なりました。しかしそれを尊厳と結びつけることはこれまでしてきませんでした。改めて考えるのは「考える葦」としての人間存在の特異性。もし、考えることを自ら放棄したり誰かに奪われたりしたら、それは間違いなく尊厳の侵害です。

 また、「選ぶ」に関しては、私たちが「自覚的に選ぶ」ことの難しさをこれまで感じてきました。人生には選べないことも当然ありますが、実は選べることの方が圧倒的に多い。そして今の自分が「選び続けた結果」であり、今後の選び方でいくらでも変わりうるという自覚は、思春期にはもちたい。

 その上で「結果を愛する」こと、即ち今の自分を愛することこそ自らの尊厳を守ることだと分かります。私がかつて子どもたちに話したときは「結果を受け止める」という言い方でした。でも、「結果を愛する」という言葉にはさらに深みがあります。

 私がこれまで選んできたことは、肯定しやすい結果となった。これから訪れるかもしれない理不尽な、あるいは容易に受け止めがたい結果を果たして「愛する」ことができようか、そのときこそこの言葉が私の中でより大きさを増す、そんな気がします。

 「痛み」については、とても小さいけれど大事なエクササイズでした。全員でしてみてもいいと感じました。(本校では混乱しないので)「人の痛みは分からない」、いえ、自分のかつての痛みすら分からなくなることがしばしばです。

 がんの痛みは想像も出来ませんが、その人らしさすら奪う痛みなのでしょう。緩和ケアの重要さは、「アメリカならピストルをまず取り上げる」というお話からも分かりました。家族のこと、友人のこと、自分の歩んできた人生……人間らしく来し方を振り返るゆとりのために、痛みを和らげる。そのことが尊厳とつながるのは先程の3つの要素からも分かります。

 球根を植える末期がん患者のお話は、すぐ次の言葉を連想させてくれました。
 「世界の終わりが明日であっても、りんごの木を植えるだろう」
それは「希望」ということだと私は思います。

 ただ、あのお年寄りの「希望」が、「この花が咲くまで生きられますように」、という願いだったかと問うと、そうではなく、ただ、球根を植えるという行為そのものが心に小さな張りを与えてくれるのだ、という意味です。花の咲く春につながる行為、そこにかかわれる喜び。それはまるで私たちが今している教育の営みと同じではないか。内藤先生がされている「生命の授業」と同じではないかと。

 驚いたのは、中学生の感性です。1年生のある女子は、次のように書いていました。

 「私はきっと『生きてきた証』をのこすためと、『だれかに美しい花を見て元気になってほしい』そう思ったからだと思います。」

 最後に、演題「メメントモリ~命と向き合うこと、よりよく生きること」は、こちらからお願いしたテーマでしたが、「死」の一文字を「命」に代えられたのは本当に幸いでした。先生のアドバイスのおかげです。正に「画竜点晴」でした。

 素晴らしい秋の一日、外の美しい錦繍に劣らない価値あるひとときをもらたして下さったことに、心から感謝し、お礼の言葉とさせていただきます。


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